anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

松沢日記 19

 それは地上では人目につくことも許されず、しかも地の底にあられもない忌避の姿でうち沈んでいた。原形を保つ猶予さえとうに過ぎてしまった人間の排泄物は、我々に有無を言わせない生々しい迫力がある。私たちの肉体から吐き出されたこの崩れ堕ちた腐臭の流動が、私たちの視界に入るや否や、一瞬にして全身の硬直と判断力の停止、この断固たる汚臭には、人の論理的思考など、簡単になぎ倒す力があるようだ。

 

 排水管の流れが澱み、そのままの大便、小便が地下を這う通り路に詰まれば、いずれは周囲に嫌な悪臭を放つ。しだいに腐ったおからの塊りのような姿に成長する。そうなのだ、私たちも死ねば肉体は腐乱して蛆がわき、この何十年かぶりに大気に開放された汚物槽の中で、何の遜色もなく紛れていられると、中を覗き込みながら私と同僚は密かに囁きあった。

 

 自分が見たくもないものを突然見せられるのは、予めその心の準備がなければ、私たちの正常な精神活動や良心を破壊する。そして隠されていた裸のエゴイズムを丸出しにするような力をもつものではないか、と思った。「穢らわしさ」とは、そうした己自身の弱みを隠蔽する為の、言い換えである可能性がある。

 

 神経質な人たちの「感じ易さ」が、実はその度合いが強まることによってエゴイズムを増し、知らずのうちに他人には不感症になるように、あからさまな腐朽や破壊には、普通の人たちの倫理感を根こそぎ破壊する力があるのではないだろうか。逆に言えば、そこが個人の人間としての、世界に対する資金石になるかもしれないと思った。

 

 しかし、流動体が暗い代赭色の腐葉土のようになるまでにはけっこうな時を経るだろう。汚物槽の蓋をあけると一斉に藪蚊が群れをなして湧き出てきた。燻蒸をする用意も暇もなかった。排水槽の底を流れるインバルから詰まっていた汚物が押し出されてくるのである。女性作業員が少し離れたところにある便器の排水口を器具で突き始めたのだ。排水の流れが止まることは、私達の生活を停止させ、内臓を犯された癌によって、初めてその暗い我が身の臓器を発見するように、日々の生活の無意識な流れを再認識することになる。

 

 作業員は若い女性であった。珍しいことに違いはないが、おそらく、現場現場で、耳にタコができるぐらい同じ質問を受けているのだろうと思い、私は我慢して黙っていた。しかし同僚が私の代わりに質問を投げかけた。「この仕事、女性がやるのを見たことないよ、20年、設備やっていて初めてだよ、珍しいね!」あっ、聞いてしまったか、と思って彼女を見たら、いつもの事だというような平気な顔をしていたので、少しほっとした。

 

 「そうなんですよ、でも、東京では女性でこの仕事をやっている者が二、三人います」。会社としてもたくさんの器具を車に積んで、難所もある現場に一人で派遣するのだから、男も女も関係がなく信頼されているのだろう。「もちろん、どんな現場にも行きますが、女性だけが出入りするような場所には、お客さまの要望に対応します。産婦人科とか、女子トイレの詰まりとか」。なるほど、今回は私たちの要望ではなかったが、女子トイレの詰まりだった。しかし、施設の古い旧館の詰まりで、結局は私たちも一緒に手伝い、それは復旧するまでに5時間近くかかたのだった。