anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言  170

加藤周一の「サルトル」(人類の知的遺産、講談社 1980)の中に、今でも印象に残る文章がある。それは私が政治家や市民運動などの演説を街頭で聴くと、必ず脳裏に浮かんでくるものである。

 1950年代の初めに、パリでサルトルが大衆集会で演説をしたその時、加藤周一が実際に目にした情景だ。スペインのファシスト政権による労働組合幹部の逮捕に抗議する集会であった。同じ演説者には作家ブルトンやカミュもいたという。そのままにその文章を書いておこう。

『・・ブルトンの演説は、舌端火を吐くという風の劇的な雄弁であり、カミュの話は声涙共に下るというのに近い感情的な訴えであった。彼らが口を開くと、忽ち会場に熱気のあふれてくるのが、よく感じられた。

しかし私が今なお活き活きと覚えているのは、サルトルの一語一語を区切って発音する低く抑えて力強い声である。「われわれは何のためにここに集まっているのか」と彼が話しはじめると、熱した会場は水を打ったようになり、感情の昂揚から一転して、彼の緻密な推論の過程に引き入れられていった。ブルトンとカミュが酔わせたとすれば、サルトルは覚めた論理の中に、興奮した聴衆を、一挙に引き込んだ。

われわれがここにいるのは、不当な逮捕と死刑判決を撤回させるためではない、という意味のことを彼はいった。われわれがどんな抗議をしても、ファシスト政権は、まさにその言葉の定義によって、彼らの政策を変えはしないだろう。では何のために集まっているのか。われわれの反対を証言するためにだ。
   
 一方には、敵味方を含めての状況の理路整然とした分析がある。抗議集会の効果は、逮捕されたスペインの組合幹部を解放するためには、極めて小さい。しかし他方には、その政治的効果があろうとなかろうと、反対の証言がある。それは沈黙による加担の拒絶である・・』

 どう考えたらいいのだろうか?ファシスト政権に対する沈黙による加担の拒絶、これは現代でも、どこの国でも今だに抵抗運動として必要なことであろう。しかし、そうした反対の証言が人の命に関わる場合、証言の効果が相手の抑制にならないと最初からわかっている場合にも、何らかの直接的で具体的な行動をとらなければならない、というのが我々の一般的な考え方であり、またブルトンやカミュたちであったのであろう。

 それにしても、おそらく私が日本の巷で街頭演説を聞く限り、姿似のカミュやブルトンは沢山いるが、同じ倫理的な自発性から、その感情を論理に転換する激しい闘志をもった人間はそうはいないような気がするのだ。

酔言  171

酔言  171

第二次世界大戦下のイタリアにおけるパルチザンの話しは新鮮であり、貴女のおばあさんのような一般市民の方々がその抵抗運動にたくさん関わっていたという事実には驚きでした。

イタリアというファシスト政権を自らが産んだ国の下での抵抗運動、このあたりの日本との違いの原因をもう少し深掘りして聞いてみたかったものです。イタリア人でありながら日本語をあれだけ自由にしゃべられるのなら、お互いの国民の感受性の違いに鋭敏であられるのじゃないかと。

また、お話の中にヨーロッパではパルチザンも国境を越えて連帯があった、逃げ道の閉ざされた島国である日本との地理的な違いがその抵抗運動の継続を助けた面がある、と。新鮮な知見になりました。

しかし、ヨーロッパの一般人であるそうしたパルチザンの個人々が何に支えられて、命の危険も顧みず抵抗運動ができたのか?それはおそらく日本のような一部の政治家や思想家の特別な抵抗ではありませんでした。

そして日本の一般人に戦争中ほとんど抵抗がなかった。またはできなかった。あるいはファシズムを産むような国民の感受性があるのか、同じファシズム国家であったイタリアと日本には違いがあるのか?

国民の感受性の総体がその国の言語ですから、両方を自由に操る貴女には、その違いが明らかに見えていると思われました。それでもう少し聞いてみたかったのですが、時間がありませんでした。

私には、日本人の感じ方は戦前とそれほど変わらないのじゃないのかと思っております。そのことは良い面、悪い面と両方があるのは仕方がありません。そして結局は、色の種類は言葉が作るように、感受性もまた我々の言葉が作るものじゃないかと思っております。

酔言  169

身体の記憶

  ボイラーと冷凍機あるいはヒートポンプ、どちらも熱源機器といわれるものである。そして現代の都市インフラ、空調環境にはかかせないものである。お互い高度に制御システムが発達した熱力学の応用の世界ではあるが、そこには決定的な違いがあるように思える。それはいったいなんだろかと、職業訓練校で生徒に教えるさいに、ふと考えたことがあった。
  
  火を扱う世界には、なにか根源的なものに人を遡らせるような誘いがある。生きることへの穏やかな安寧へと、あるいはこの濁世や塵土にまみれた己れの浄化へと。そして炎そのものとしての独特な、魔界の入り口のような荒々しさもある。

   そういえば私のいた鋳造工場にはふいご祭というものがあった。火に対する人の怖れと感謝が、この現代の科学技術の最先端の場所に共存していた。今も、大きな施設のプラントでは、ボイラーの四隅に塩を円錐形に積み、床には酒を撒いて安全を祈願するはずだ。そうした行為に触れながら、私がひしひしと感じることは、炎に対する人間の何万年もの記憶の堆積が、そうした空間にあるいは私の身体の中に脈々と潜伏しているということだった。

   温かい炎を見ていると、身体の肉に埋もれている遺伝子が一斉に動き出すのを感じるのだ。深夜、ボイラーの燃焼する小さな覗き窓からじっとその明るい火炎を眺めるのが好きだった。揺れて壁に映る自分の影をその視界の縁に感じながら、なんど安らぎのような不思議な気持ちになったことだろうか。時間は流れを止め、おそらく太古の昔にも、人類はこうして炎を見て、瞼のうち焼きつけてきたに違いないと私は思わずにいられなかった。

  それに比べ一方の冷凍機械は、配管内の冷たい冷媒の相変化を繰り返しながら、自己のいつ終わりとも知れない完結を目指して、閉じられた閉鎖系の中で静かに微振動を繰り返しているように見える。そこに私たちの安らぎは見出せない。冷蔵庫と同じ圧縮機の唸りが聞こえるだけだ。

 一方のボイラーはやはり野蛮で、開放的であり、怒ったようなおのれの咆哮に自らも震えているようだ。しかもそこにはまるで私と呼応する、意識ある心さえあるように思えるのだった。私は夜中の眠りについたボイラーが、毎晩、まだ熱い缶の中で独り言や寝言を漏らしさえするのを知っている。

酔言  168

親愛なる A 様

  この文章はどこかの雑誌に以前載ったものなのでしょうか? 日付を見ると30年前の掲載文ですが、これを読むと作家中上健次にそうとう影響をされたんですね。僕はこの作家、残念なことにほとんど何も知らないんです。読もう読もうと思いながら、この手はなぜか本に向かいませんでした。おそらく、この作家のもつ強烈な文学的魂に怖れをなしていたのかもしれません。

  Aさんの作品、力が漲っていていい文章ですね、これを読まして頂くと貴方の文学的素質がよくわかります。そうか、その素質には中上健次の影響の流れがあったのか、と納得しました。たしかに若い時にこれだけの文章を書けば文学からは抜け出せなくなる、幸か不幸かではありますが。

  僕はこういう文学の世界に入ろうとすること自体が、そもそも不幸ではないかと思っているんです。だってそもそも幸福な人は書くようなことはしないでしょう? いや、幸福であればわざわざ書く必要なんかない。書くことをしなくとも、ほとんどの人たちは泣いて笑って、少しだけの人生の知恵を得て、もしかしたらそれで納得して、いや諦めて生きていけるのです。

 私もそうです。書かなくともじゅうぶんに生きていける、おそらくですが。むしろそこが、私のような凡夫の凡夫たる悩みなんです。たとえば貴方と話題になった、埴谷雄高が言う私が私であることの嫌悪、その私から逃れられない不自由さ、いわゆる「自同律の不快」などは、書かざる人間には空言の極み、なんの意味もないのかもしれません。

  最初に心も身も焼かれ、影響された作家はどう足掻いても、最後までつきまとうものです。ですからそこを振りほどいてその影響を超えられるか、あるいは別の道を自分の中に探すのかはまた別のことで、絶望的に大変なことですね。

 それでも、Aさんのこの文章と才能は、それ自体が生活とは関わりなく自立しており、文学的価値が築くものを、過去からの才能を継承して、さらに新しい世界を生み出せる若々しい証言であると、私には思えるものでした。

酔言  167

夏蝉

われ虚無の深き淵より汝を呼ぶ、そんな言葉があったか、なかったか? しかしそんなことも真剣に考えたのは随分と昔になってしまった。虚無の流れは私からけして涸れることはないが、その川床に観念の席を架けて涼むには危険すぎるものであろう。観念ではなく、存在に湧き上がる肉体からの虚無だけが豊穣を生み出す。

 耳を澄ますと微かな夏蝉の声が私の内から聞こえる。その声も虚無の彼方に私を誘なう声のようだ。そこではすべてが清らかに明るく輝いている。しかし、その晴明には恐ろしいほど涯てが見えないのだ。そして、それはどこまで行っても実体がないに違いがない。

 この取りとめもなく晴れ上がった器の中には何も存在していないのだ。しかし、空っぽの中にも深き淵の底で、生成と消滅が微細に繰り返されて揺らいでいるという。実体になる前にもすでに何ものかの揺らぎはあるのだ。すると虚無も音も立てずに揺らいでいるのか? 私はその言葉に微かな胸のときめきを感じる。しかしその理由は分からない。すべては揺らぎながら流動しているのだ。あのしたたかな虚無さえも、

酔言  166

秋雨  

   自宅から見える外の秋雨は朝からやむこともなく降りつづいている。随分と気が滅入る。そうだ、今日は職場の特養老人ホームで、テーブル修理の宿題があったのを思い出した。老人たちが食事に囲む一卓のテーブルの脚がぐらついていた。修理を頼まれていたのだ。

 家具屋じゃないのだから、もちろん満足な修繕はできない。それでも地下の小さな管理室の床に座り、壊れた脚の修理を始めているうちに、なんだか熱中してしまった。頼まれなければ自分からは敢えてしないが、工具を使って何かを作業することは嫌いではない。

   以前勤めていた大病院と違い、一人勤務の特養ホームには工具がない、材料もない、のみやヤスリ、穴あけの道具すら見当たらない。ここにあるのは体裁用の勤務日誌、事務用品だけである。それでも救いになるのは介護に努める若い人達の優しさと、眼の落ちくぼんで表情のない静かな老人たちなのだ。

    実は昨日、ダイソーで期待もなしに電動ドリルの替え刃や砥ぎ石を買っておいたのだが、これが案外使えた。捨て板を集めて切り繋ぎ、ドライバーをのみのように使って天板の隅にほどよい溝を穿った。同じくねじ穴はマイナスドライバーで叩き広げ、削り取って開けた。人間は悪条件こそかえって頭を使うものだと、あらためて思った。

 一日が過ぎていく。どうかするとこうした鬱陶しい雨の日には、車椅子に背を深く沈めて外を飽きずに眺めている老人たちのその静けさが、それぞれが生きていることへの深い悲しみにも見えてくることがある。認知症になっても、私たちと同じようにそれぞれの内面が深くあるはずだ。

 これは何もこの老人ホームの利用者に限ったことではなく、私達の誰もが生きて立つ、避け得ぬ基本的条件ではないかとも思うことがあるのだ。死ぬことはあらかじめ決まっているのだから、その時が来たら静かに死を迎えればいい。観念ではなく、たとえそういうことがあり得るとしても、そこに我々が希望をもつことは許されるだろうか。

   目を外に向けると、住宅地に埋もれるように建っているこの特養の建物に、細かな雨がひっきりなしに降りそそいでいる。屋根があっても壁を隔ていても、その冷たい雨は容赦なく我々の心をなぶるようだ。

 薄暗い廊下に病室のような各部屋が並んでいる。手摺りは老人用で立派だが、廊下突きあたりの避難誘導灯の下でぷっつりと途切れている。この廊下の薄暗さは、遠くにいくほど光が逃げていく遠近法の気やすめぐらいでは説明できないものなのだ。

 在室者の名前を示すタッチパネルが入り口に淡く光っている。それは彼らの生きている証のように頼りなげに灯っている。主のいなくなった空き部屋もところどころに見えるがその扉は閉まったままだ。それにしても私たちに希望など来なくとも、この雨はいつまでも止むことはなく、この特養老人ホームを濡らしつづけるようだ。
                                                              
               2015

薄桜色の遺言

人は死んで半日も経てば、充分に冷たくなってしまうことを初めて知った。歳のせいもあるのだろう、頭皮がなめし革のように骨に張り付いている。それでもこれだけ冷ややかな手触りだと、さぞかし本人も気持ちが良いに決まっている、と思った。

 ドライアイスも使わないのに、額に当てた私の手から伝わってくる頭蓋のひんやりとしたその冷たさは、もはや生きた人のそれではなく、唯のむくろのなれの果て、むしろ職場で私がよく手にする、破れた断熱材の下に時々顔を出した、あの金属管の冷ややかさと同じ類いの物のような気がした。
 
 半世紀近くの執拗な腰の痛みや加齢黄斑変性症も、誤嚥性肺炎や私を含めた人とのわだかまりも、皆、きれいに取り払われて、母は実に穏やかで優しい顔をしてベッドに横たわっていた。人は重荷を下ろすと、こんなにも柔和な表情をするものだろうか。苦しみの跡はどこにも残っていなかった。こうして見ると寿命が尽き、朽ちていく人の行きつく果ても、そうそう悪いものじゃなさそうだ。
 
 我々の強い思いがこの身体へ深く食い込めば、かえって言葉にはならないものだ。食い込み深く、しかもそれをもたらす意識下の傾斜が急であればあるほど、言葉にすると、その真実が逃げてしまうものである。やはり、われわれの身体には言葉さえ届かない深度がある。
 
 産みの母ではなかったが、私がこの世で母という言葉で呼ぶことのできる人は彼女だけだった。その母が札幌の介護施設で先週、死んだ。たとえ血が繋がらなくとも、この言葉が私に喚起する感情の数々は、ほとんどが彼女からもたらされたものだった。私にとっての母という言葉の切迫さには、その時々の彼女の存在と意味に繋がっていたのをあらためて感じる。そして、その生身の存在は消えて、意味だけが私に残った。

 台車に乗って炉から出てきた白骨はどこかすがすがしく見えた。収骨室ではすでに焼き上がりの湯気も立てておらず、荼毘にふされた骨はさっぱりとした白磁の壺の肌合いさえあった。カルシウムのかさかさとした音をさせ、すでに係の人に箸入れされた為であろうか、トレーの上で礼儀正しく、私たちに拾われることを待っていた。
 
 人の骨を拾うこと、これで何度目になるだろうか。自ら望んだわけではないが、他人の骨を拾うことが増えるのは、すなわち私自身が歳をとった証明にもなる。人を焼却すること、死者を焼くことに立ち会うのは、普通には日常にないことである。
 
 火炉からでてきた人体の、生前とのあまりにも違いに声をなくしたのは、はるか昔の子供のころであった。私はそのあと何日ものあいだ悪夢にうなされた。かろうじて台車の上で人の形跡を残した人骨と、そこから立ち昇る湯気にむせかえるような臭いが、私の鼻腔と脳裏から離れなくて、恐怖だったのである。
 
 そういえば、義弟の嫁の実母が亡くなったときも骨拾いをした。今年の春のことだった。それほど付き合いはなかったが、何かの折には親戚として顔を合わせた。入院中に、急に容態が悪化して亡くなった。数日前には普通に娘と話していたという。旦那が失踪したのち、スナック経営をしながら一人娘を育てあげた女傑であった。
 
 彼女を荼毘に付した市営火葬場には焼却炉が2基あるだけで、こじんまりとして寂しい施設だった。私たちが到着した時は、すでに隣りの炉はぶんぶんと音を立て燃えていた。笑顔の若い男性の写真が炉の前に置かれているのが目に入った。どういう理由で亡くなったのかは知る由もないが、残された家族はさぞかし悲しいことであろうと思った。
 
 骨拾いは私を含めてわずか5人であった。それでも、時間がきて控え室から収骨室に入るとアルミのトレーに遺骨が並んでいた。女性の担当員が、すでに拾う骨だけを選別していた。聞くと市の職員であるという。小さな箒と箸を使って要領よく分別しながら、私たちに焼き上がった骨の名称を丁寧に説明してくれる。すべてが澱みなくマニュアルの上を進行していくように見えた。
 
 私は白茶けた遺骨を骨壺に入れながら、人間はここまでなんとさっぱりと、脳みそや内臓、体液や筋肉の五臓六腑をすべて焼き尽くして、究極の抽象性に至れるのかと思わずにはいられなかった。生きてきたすべての汚辱や後悔、心残りや寂しさが、この目の前に散らばる圧倒的な物質性に還元された、あるいは単純化されて一切の説明を必要としなくなった姿に、小さな感動すら覚えたのだった。
 
 それはそう遠くない将来の自分の姿をそこに見たからなのか、単に歳を重ねて見慣れた結果にすぎないのか、それともだれもが逃れることのできない平等の結末を受け入れることができたからなのか、私が短い人の人生をあらためて噛み締めたのか、どちらにせよ、火葬場の骨を見てそこに無機質と清浄を感じたのは初めてのことであった。

 
 介護施設に入るには当然、利用者の身元保証人か引受け人が必要である。そして子が遠く離れて暮らしている場合には、近場の親類ということになる。私は兄弟もいないので、これが色々とこじれる原因にもなった。
 
 おそらくその当時、母は離れて住む私のことをさんざんに親戚に中傷していたと思われる。原因は親の面倒を看ない私にあった。しかし、東京に一緒に住むことの提案はしていた。もっとも、妻の義母と25年間、公団住宅に3人同居していたので、近くの高齢者施設に入るということが条件だったのである。
 
 結局、母の面倒を実質的に見ることになったのは従姉妹とその旦那であった。今でも、彼らと交わした会話が鮮明に記憶に残っている。あの時、札幌の彼の家に泊まり、朝まで話し合った。窓の外に白々と明けていく空を見ながら、私は初めて話し合いでは解決できない、世間というものの強烈な拒絶を身に引き受けた。
 
『 いやいや、そんな事はこれっぽっちも考えたことありませんよ。
嘘だ! 言葉の節々にお前の本心が見え隠れしている、と彼は吐き捨てるように言った。
 いったい私の本心ってなんですか?
お前のように親の面倒を人任せにすることだ。
 でも、そうならないよう東京から駆けつけ、こうしてお会いしてるじゃないですか。
なぜ、お前が親の特養の身元保証人にならないのだ。
 それはまったく母自身から知らされていなかったことで・・。
叔母さんの最後を看取るのはお前なんだぞ。
 それは勿論のことです。
今後も、叔母さんの頼みは聴くが、お前の頼みは一切断るからな。
 はい、でもこちらから今までも、何も頼んだ覚えはないのですが。身元保証の事も理由は分かりませんが、私でなく奥さんになっていました。しかし、母自身の反対を押し切って、改めて私が引き受けました。母はまだ元気ですが、このたびは市内のいくつかの葬儀屋にも話を聞きに行きました。
そんなことは当たり前だろう!自分の母親だぞ。とにかく、お前が昔から嫌いなんだよ。
 そうですか、すべては母からの言葉だけで、そちらが誤解されてるとしか思えないのですが・・。しかたがないです。
だから、もうお前には一切関わりたくないのだ』
 
 それにしても、老いた親の面倒を見る、これは普遍的なことなのだろうか? 日本などの儒教の伝統がある国では、当然のこととして、いや、先祖供養も兼ねて、人としての最高の徳目、「孝」という、社会規範の中核にさえなっている。

 私と両親の、とくに母親との感情のぶつかり合いは、そこの根本的な違いに発したものだろう。子供は親の面倒を見るべきである、と。藁の上からの養子、おそらく私を生まれてすぐに引き取って育てたのは、言葉にこそ出さなかったがそこが一番の大きな理由だったのではないか。
 
 
 ほの暗い夜明け近くに、おそらく誰にも看取られることもなく、12年間住んだ養護施設の3階隅の小部屋で、介護ベッドのシーツの中に一人死んで行ったあの日から、恨みつらみがあるならと、彼岸に去った母の繰り言にじっと耳を澄ましているのだが、それにしても不思議なことだ、人里離れた大地にこぼれ落ちた栗の実のように、母は秋空の奥処(おくか)に固く結ぼれて、私にはいまだなんの気配も感じられないのだった。
 
 母の遺骨は東京の我家の祭壇に安置してある。幽かな声も立てず、石のように鎮まりかえっている。近いうちに本人の希望により、大阪にある父の墓所に納骨する予定である。そこはある宗教団体の本部がある場所であるが、宗派によりそれぞれの弔い方は違っていても、やはり手厚く死者を祀る空間は何処にでもあるものだと思う。
 
 しかし、私自身は死んでもそこには納骨せずに、すでに海に散骨されることを妻に頼んでいる。もちろん私が先に死んだ場合ではあるが。なぜなら死者の遺骨は唯のカルシウムの残骸であり、この地上に残すことに何の意味も見出せないからである。
 
 だから、私は今回、母の遺骨を飛行機で抱いて運ぶのではなく、ダンボールに手厚く納め、宅急便で東京に送ることにした。もちろん宅配業者には小包みの中身を言ってはいない。ただ、陶器割れ物、上下に動かさず、とだけ伝票に付記をした。
 
 母は私を生前のように怒っただろうか。そうであるならば、何らかの手段で必ず私に伝えてくるはずである。死者の異界への閉じ込めは、そして祈りの強い人の死んだ直後のしばらくは、それほど堅固なものとは私には思えないのである。彼女もそうした者の一人であったはずだ。私の処置に異議を差し入れるはずである。
 
 ひたひたと台所の鍋底に滿つる水音も、かさかさと触れあう庭の葉音も聞こえない。しかし、霊魂とは霧深きしののめの空の下、肌を濡らされていくようなかそけさの、密なるものが毛穴にはい入り、その見えざるものを感知するセンサーを皮下に目覚めさせていくものだ。霊魂は時間も空間も超越したものだから、やはり時空に縛られている五感の力では捕捉することができないのである。

 振り返れば、20年前に死んだ父はおそらく深く憂いを残して死んだ。それは妻である私の母を心配していたのだと思う。さらに私と母との関係も含まれていたのだろう。息を引き取る直前に、一筋の涙が彼の頬を流れた。その時、私はそれが何の涙かを知る由もなかったが、今ではその涙の意味がわかるような気がする。
 
 荼毘に付したあとの時だった。霊柩車の中で骨壷を抱く私に、骨壷の中でがさっと口惜しい音を立てて「母を頼む」と、たしかに呟いた。私にはそんな気はなかったし、心の中で返事はしたが、結局、父との約束もはたさなかった。そのことを父は早くから予見していたのかもしれない。

 父の通夜の日、真夜中にふと目が覚めた。遺体が寝ている隣りの居間の襖を開けると、枕元に置いてあった燈明の光がゆらゆらと揺れて明るくなっている。私は怖くはなかったが、父の生々しい気配をたしかにその部屋の中に感じていた。私を見る優しい眼差しを脳中で見ていた。

 と同時に、明るくなった燈明の光がなだれをうって目の中に押し寄せてきた。光の炎上は私の水晶体の底に小さな丸い像を結んだ。そこには小さな幼な子がきゃっきゃと笑い声を立てて、中空で遊んでいるのが見えていた。それが死んだ父であることは瞬時に分かった。

 今、純粋となって大元に帰ろうとしている彼の姿を目のうちに認めたとき、後戻りのできない道を父がすでに歩み始めていることを確信したのだった。その時、彼が死んでから初めて、私は声を上げて一人で泣いた。

 幽明境を異にして、人は死してのちも交換する手立てはあるのではないか。しかもその心情世界は、会話を重ねるごとに深まっていく。そこでは死者たちは生者のために存在し、子孫たちのための垂直落下の束になれば、思わぬ力をこのうつし世に発現させる。我々の死者への最大の供養は、そうした彼らを想起し、密やかな会話を重ね、彼らの力を引き出すことにあるのであって、骨をただ愛でることではないのではないか。
 
 それにしても母の沈黙はいつまで続くのだろうか、私にはやはり不可思議なことに変わりはないのだ。ひょっとしたら好きだった染め色の、私の選んだ淡い薄桜色の経帷子に、あるいは祭壇を埋め尽くした生花に、至極満足したのかもしれない。何も語らぬこと、それこそが言葉の届かない深度から私に届いた、もしかしたら母の唯一の、そして最も饒舌な遺言だったのではないか。