anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言 34

酔言 34

誰もが等しくとは、すべからく年齢差という垣根にも当てはめるべきであって、この儒教世界に生まれ育った者にとっては、至るところその無意識の悪癖にむしばまれている、と思われる。職場やグループ内の、あるいは知人の歳下の経験のない者に対して、その意見の正当性も考慮せずに、ただ経験のないこと、その年齢だけを基準に批判や拒否をすることは、まさにこれこそ差別、ヘイトに当てはまるのではないか。

 相手の考えが至らないとこちらが思うところは、あくまでその違いを話し合って、お互い明確に炙り出し、すり合わせればいいのである。だから意見の正当性はその年齢や経験ではなく、その問題解決のための議論の妥当性や論理性、あるいは時宜性を基準にするべきなのである。しかし、実際には上下立場が逆転しても、これがまたむずかしい。話の内容とは別な、年齢差による社会的システムに議論や感情が束縛されるのである。

 よって、平等観念はこの極東の島にあっては、国籍、性別だけではなく年齢差にも当てはめるべきである。自分から抑制的な傾向や、異質なものとの閉塞をつくりだしやすいこの社会に暮らして、革命や社会変革などという大仰な理想よりも、私はいつもこの近々に触れる、日本という世間を深く広く下支えしている難所のようなものに突き当たり、息苦しく生きてきたと感じる。それは長いあいだの年少者としても、またひょっとしら現在の干からびそうな年長者としても。

 弱肉強食の無秩序には実は自由というものはなく、あるいは外部環境のあらゆる束縛を解き放ったところで、自己の真の限界に突き当るまでその外部との衝突がないかぎり、本当の自由を手に入れることはないだろうが、外部環境として、少なくとも無批判で暗黙の習慣としての、年齢差の垣根による自由な交流のさまたげは魅力ある社会とは思えない、という考えは私の中で一貫している。

 私がアムステルダムに住んでいた頃、運河に浮かぶ小舟に暮らしている初老の男性、いわゆる船上生活者に誘われて、そのヨットを訪ねたことがあった。彼とは職場の近くの運河沿いにある小さなパブで知り合った。しばらく狭い船室で話していたとき、急に彼が怒り出したのだ。私はなんのことかわからなかったし、今では話の内容も忘れてしまったが、理由を尋ねると、彼が言うには私が自分の意見を積極的に話さないからだという。さらに年若い者ほど、経験のない者ほど、歳上の者の前ではその考えや意見を努力して言わなければならない、というのだった。

 私はその怒りの理由に驚いた。そしてさらに彼が言うには、その意見の妥当性は抑制的に話す私ではなく、話し相手の彼自身が判断する範疇でもあると言うのだった。今から考えれば、英語が私の母国語じゃないハンディがあったのかもしれないが、それはここでは私の言いたい本質的な問題ではない。

 私の身体に染みついていた、経験のない年少の者こそ年長者の話しに耳を傾け口をつぐむべしという極東の慎み深い習慣は、その運河に浮かぶ小さな船室で、彼の地ではおそらく平均的な、一人の初老の男に真っ向から否定されたのである。これは、この漠としたヨーロッパの空間にそのまま、まさしく通じているものではないかと、その時、直感したのだった。

 それにしても既成概念を破るには、いつの時代も経験に毒されていない若者たちかもしれないではないか。年長者自身がやれなかったことを彼らに押しつけても説得性がないのである。しかし、その彼らに想像力が欠如していれば、遠慮なく叩くべきであろうか、他者や社会に対しての想像力の貧困を。我々は時代とともにすたれていく「長幼の序」の破壊を嘆くのではなく、若者を含めた私たち個人の想像力の硬直と疲弊こそが、この社会の不幸と不平等を招いていくのだと、あらためて認識すべきである。

酔言 33

酔言 33

一つの疑問がどうしても湧いてくるのです。個人の内的感覚に結びついていない思想なるもの、己れの感覚の担保のない思想は、たんなる精神の空転なる運動にしかすぎないのではないか、概念の組み合わせや論理的な整合性を追うだけでは必ず他者に乗り越えられるだけではないのか。

 銃弾が実際に頭の上を飛び交っていない下での、現実というテストをくぐり抜けない思弁の有効性はいかなるものか、一つのパラダイスを求める思想よりも、大多数の私を含めて愚鈍者が陥っているものの中に分けいるこそ、この世界の真理と突破口があるのではないか。

 他人の思想を語り、精細に説明することにいかほどの意味があるのか、そしてもし、孤高なる者のその努力に他者が聞き耳を傾けないときの効果はいかほどになるのか、その時は、無関心な他人を呪い、あるいは切り捨てることで自己を正当化するのか。

 わずか1500gほどの小さな一人の脳が作り出す観念や思想なるもので、現実を変えていくことができるのか、できるとしたらその源泉はいったい何か、情念か論理か、やはり自己増殖してやまない言葉の力か。

 自由なアナキストが人間本来のありようとしても、それが複数人あつまるときに、はたして社会はなりたつのか、成り立つとしてもその道筋はいかようになるのか、個人の徹底的な自由は集団の中でどう折り合いをつけるのか、そんなことが次々と頭に浮かんでくるのです。

実は私の本心は、コルク部屋からたとえ一歩も外にでなくとも、観念だけの内的劇で充分の生をいきることができると、肯定しているのですが・・。

ラディカルなものこそ実は本質的であると、私も考えます。しかし、虚無に生きる者にとって、革命だ、転向だ、戦線維持だ、世直しだという話しはどこか絵空事に感じ、ただ己れの言葉や旗振りの高揚感に酔っているにすぎないのではないかと、思うところもあるのです。正義とは、社会を断罪する使命感はアドレナリンを溢れさせ、自分自身によほど抑制的で警戒しなければ、大上段に構えた「病い」に至る危険があります。

 つまり、もしそうした闘う対象がなくなったとき、ひょっとしたらすべてが幻想であるかもしれないと、自己に反転する猜疑が生まれたときに、その時は、いかにして自分を維持するのか、と。闘う相手があって初めて自己闘争が成り立つようなもの、そこにはだれもが相対さなければならない普遍的な思想はないのではないか、と思うところがあるのです。

亡き人

酔言 32

これは以前、今はもう新聞なんぞ読まないが、購読していた朝日の投稿欄で直に読んだことがあった。読んだあとに不覚にも涙して、しばらくの間、この方の悲しい想いとその切なさが、知り合いでもない遠く隔てる私の心をもやのようにとらえては離れず、どうにも困ったことがあった。この奥さんを亡くされた投稿者の気持ちが、実際には体験のない私のような者の心をも、つよく打ったのである。残された彼女のノートはまるで一編の詩、絶唱のようだった。そこにあるのは言葉のもつ力でもあるのだろうが、あらためて読むと、その時の感動がふたたび蘇ってきた。

 考えてみれば私も妻と付き合って45年になる。早いものだなと、詮なきことをつぶやきながら、あと何年一緒にいられるだろうかとあらためて思った。そして、愛想をつかされて捨てられなかったことだけは、たいがいのことの続けるだけの甲斐性もなく、なんの自慢も業績もない私の人生の中での、良しとしようか。

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サボテンの花  改

サボテンの花 (改)

薄紅を点したサボテンの花が、昨年に続き新宅のベランダに咲いた。しかも誰も見ていない夏の真夜中に、ほのかに月明かりが漂う小さなベランダで、その秘めやかな花弁をそっと押し開いていたのである。私は驚いた。というのは薄紅の花が何かを私に語っているようで、うす闇の中に浮かぶ清らかな二つの瞳に見えたのである。それはまるで近くにある高尾の森の、黒々とした千年の闇を背後に引き寄せながら、その淡い光で私の心の底まで射るように思えたのだった。

 引越し前の荷造りの時、彼らを段ボールの箱へ入れたまま蓋をすると、忙しさの中、その後水もやらずに荷物の山に紛れてしまった。トラックの荷台の振動に揺すられて新宅に着いてからも、私は水も光も一切やらずに、いつものように語りかけもせず、敢えて沈黙を頑なに通して、こちらに来て一週間ほど、床に積み重なった荷造りの山の中にそのままにほったらかしにしていた。しばらくすると、サボテンの入った段ボールを、目障りなものを遠ざけるように、私の見えないところにわざと置いてしまった。

 引越しはもちろんのこと、生きることのすべてにめんどくさかった。どこかにサボテンなど枯れてしまってもしょうがないと思っていた。いや、それを望んでさえいた。箱の中の彼らの気配は頭の隅に届いてはいたが、そんなことは些細なことだった。もう彼らと手を切ろうとも仕方ないと割り切っていた。

 高尾の森の登山道に、あるいは近所の空き地に人知れず咲く野の花は美しい。しかし、残念ながら私から自立した彼らはどこまで行っても絵葉書のように空々しかった。そして青空が頭上に広がれば広がるほど、その可憐さは私の前で匂い立った。風に吹かれて花弁をかしぐ姿は幻にしか見えなかった。

 私にはいつもそういうところがある。努力して積み重ねた関係性を惜しげもなく断ち切り、あえて不義をつくることによって、衝動に駆られたように分断し、自分の中の自分に対する嘘や偽りを生む、他者との感覚の齟齬を一挙に清算したくなるのだ。だから、気を取り直し、段ボールから幾分青白く干からびたような彼らを取り出したときにはもうしわけなく思った。株分けの子どもたちが親を凌ぐほどの背丈になったのに、こうして段ボール箱に打ち捨てられている姿は哀れだった。サボテンの運命は私の手の内にあり、いつものように、やはり移り気な自分自身を恥じることをまた繰り返したのだった。

 一時にせよ、彼らを見限った私を赦してくれるだろうか。移り住んだこの霧深い山あいの地で、私の用意した安物の小さなかわらけの入れ物に、もはや安住の根を張るしかないのに、それでも柔らかな薄紅の花弁の光りは、ベランダの下で清らかに漂い続けていた。あらためて私の胸は痛んだ。そして、彼らの言わんとするところをけして聞き漏らすまいと、やつれぎみの幾分皺深くなった紡錘形の静謐へ、また耳を尖らせた。

 彼らは私のあからさまな突き放しに怒っていたのか、それともそんなことにはまったく関係なく、その開花によって私の感応に答えてくれたのか。それはただただ彼らの強い生命力の発現にすぎなかったのか。しかし、確実に、あの清らかな花を見ていると、自然というものの中に、すべてのことがのみ込まれていき、しかも肯定されていく力強い律動、ピュシスが備わっているように思えた。

 新しい環境で見事にその生命力を継続したサボテンの花は、自分の意志で開花し散るわけではないだろう。それでも、彼らの姿はあまりにも自然の時宜にかなっているように思われた。彼らの闇の中での発現は、意思のないところの純粋な他力の力でもあった。私は少し安心した。

 そして、それからまるで死に急ぐように、数夜を待たずあっという間に花を散らしてしまった。古株の親サボテンも、そこから私が株分けして成長した子供たちも、ある日、まるで申し合わせたように芽をつけたと思うと、その産毛に包まれた花芽が膨らみ始め、茎を上方に伸ばしながら先端を長く突き出して、とうとう美しい花房を開花させていたのだった。

 めずらしいこともあるものだ。彼らのその千年の夢が一夜にして妖しく結ばれてしまうと、生命発光の役目を終えた花のむくろはすみやかに力を失った。萎んだ花弁はだらしなく鉢植えの黒土にしな垂れて、私の意識からは遠く離れ、みるみるうちに同じ土色になってしまうのだった。

 私にはサボテンがその内部に強い生命力を持っているように感じていた。彼らは静謐の中に身動きもせず佇まい、いつも畏まっているようだった。深夜のベランダの片隅にじっと息を殺して、私の近づくのを待っているようだった。もしもこちらから彼らに意識の矢を射かければ、すぐにも感応してくるように見えた。

 彼らの固い皮膚や針のようなトゲは、外界から身を守るためだろうが、それは彼らの内発自体の強さを内側から逃がさないために、あるいは、悪条件のもとでもその生命力をいわば外に揮発させず、濃密を保つための装置のようにも思えた。

 確かに彼らにはあきらかな意思は見えない。しかし、こちらがそこに何かの気配を感じとればすぐさま反響し、そこには意思が生まれ、感応が成り立ち、私たちと確かな関係性がこの平坦な現実にも立ち上がるものと思われるのだ。閉じ込められた自発の何ものかが、濃密差の程度はあるにしても、互いの発する孤立波がもつれ合い干渉し合うように、こちらとの合流波を形成して質的な空間を創り上げていく。

 相手の意思の存在はいつでも陽炎のようであり、私以外の意識を確証することは原理的にできない。この不確かな相手の意思はまさに肌で実感するしかないのだ。我々はなんと希薄な原理の上にその立ち位置があるのだろうか、とも思う。そうしてその相手の意識の発現はこちら側の解釈に大きく影響されるのだ。敢えて言うならば、我々は唯の石塊にもそこに意思を仮定することは可能であり、例えば、チューリングテストにかけられたA Iに意思があるのかどうか、そこの線引きは今でも明確ではないであろう。

 人が飢餓の状態にあるとき、本来、人に備わっている感覚器官の鋭さはいや増すという。視覚はその輪郭や色彩を増し、聴覚はより遠くのものを聞き分けることができる。鈍感した味覚は味わったことのない刺激に覚醒する。悪条件のもとで、かえってそれぞれの器官の目的が単純化されることにより、本来の役割が蘇ったともいえる。はたしてサボテンの器官は何が単純化されたものであろうか?私には彼らとの交感の秘密は、そこを知ることにあるように思われた。

酔言 31

酔言 31

 日々、千床近くある都立病院の設備管理の副所長として、あるいは職業訓練校の講師として、仕事においては激しく世間と触れ合うことになっているが、それは私の本意ではない。いやいや、私にたまたまこの時点で与えられていることに、私なりに真摯に反応しているにすぎないのかもしれない。小さな頭で、どう考え続けても目的などそもそもない人間は、その場限りの生き方か、逆に言えばそうせざるおえないのだ。

 私は一方では、世間と付き合う術を生まれながらに肉体に装備しているようだから、健康でありさえすれば生活にはけして困らない。そのおかげで、今でも仕事がどこからともなく湧き出てくる。たとえそれがたいした収入のある仕事ではなくともだ。心もからだも他人を傷つけることなく、しかも永遠の今の遠ざかるこの仮の世で、静かに生きていければそれでいい。

 その静かに生きる秘訣はただ一つに思う。どんなに辛くとも悲観や自己否定をしないことだ。なぜなら人生は私が真剣に自己否定を繰り返しているほどに、他人は片端れにいてさらさら甘くもなく、無関心であり、またそれぞれの私たちの生きる時間もそうそう長くはない。そして他人との比較に陥り他者に依存してしまう感覚は、この自己否定感と比例関係がある。

 もし、仮に自己否定する理由が真実であったとしても、その絶え間なく内より湧きいでる耐えがたいエネルギーは、それこそ己れの創造に益しないのであれば他人のために使った方がいい。ひょっとしたら、すべてに否定的な傾向を持った人間にとっての、私たちの日々の仕事ということの隠れた意味や価値もそこにあるのかもしれない。

 嫌いなことをどれだけやれるか、意味を見出せないことにどれだけ身を傾けられるか、単調な繰り返しをいかに創造の秘密にするか。この不毛とも見える工夫に身を潜ませば、何処からともなく豊穣の風もやってきそうなのだ。だからそうした日常の皮膚感覚に、私は耳を傾けて生きてこようとしてきたにすぎない。

 考えてみれば、好きなことはだれでもやれる。しかも、それは個人唯一のものを生み出すためのただ一つの最善の方法だろう、と思っている。しかし、真逆の方法があってもまた楽しいことではないか。楽しいことや好きなことだけをやれと、何処のだれが決めたのか。それはいかにも世間受けする月並みな武勇談であり、我が身に単独行への強い覚悟がなければ、現実には自他ともに大きな犠牲を撒き散らすだけだろう、と私は思う。

 嫌なこと、それが次第にできるようになったのはただの慣れかもしれないが、私の中の相矛盾する価値観に、おそらく私自身が寛容なところがあるからだ。何事にも確信が持てず、また潔癖性ではないのである。だからこの現実を受け入れるためには、矛盾するそのこと自体が私の根っこであると認めることにあった。

 私は寺院の土壁の連なる日向に、日がな佇む姿勢に高い価値を認める。憧れの達磨禅師のように壁を見続けても、あるいは巷で激しく世間と触れ合っても、同じものを違うように見えているだけで、その先の大切なことは実は何も変わらない。どちらも削ぎ落とされたあとの単調さや繰り返しの中にこそ、深い思想が芽生えるのだ。

 すべては幻想の中、現実などは関係ないという強い思いに駆られて、それでも、そのあるかないかの存在の一点に向けての虚しく真摯な密度さ、それだけが真に大切なことなのだ。私自身が一途に虚無に向かって進み、生き身そのままの陰圧の化身ともなれば、待つこともなく望まなくとも、私の思考と肉体の隙間から、外の風がいくらでもこちらに吹いてくるはずだ。

 恥じることは、思考の緻密な概念操作ができないことではなく、理想の世界を思い描く能力がないことはいざ知らず、この日常生活より繋がる世界をいったんリセットして、まったくの異ざまに見ようとする真の意欲と勇気が、私からなくなることであろうか、これを堕落という。それにしても、世界を幻であると積極的に肯定する理由は、私の知覚自体からはなかなか見出せないが、しかし、世界が幻ではないときっぱりと否定する理由もまた見つからないのである。

こんこんチキ

巷ではたった一度の人生と言うけれど、長く楽しく無理をせず、家族団欒微笑ましく、ときには友と祝い酒、膝の上には孫を乗せ、夫婦で港街の演歌を歌う、あぁー♪ そんなことは、わたしゃ縁もゆかりもないようで、ぺんぺん草のふて寝酒、浮気心と飽き性に、身も心も疲れ果て、隣国といくさも近づく天下の大事と駆り立てられ、官邸の夜郎自大の嘘の上塗り呆れ果て、こぶし振り上げ怒るふり、さても、勇ましきわが身の気概のなさにうなだれる、あるのはただ、きのうも今日も同じ日を、埋もれ火を焚きつけて、恋い願うことも何もなく、日々のたつきに伏しながら、むなしくよわい重ねるを、いっそ焼き場の白煙に身も心も変わり果て、あだしの野の露に消えなんと、傾ける盃に口を重ねる、わたしゃ、うどの大木こんこんちき、さぁ、ヤケのヤンパチ日焼けのナスビ、色が黒くて食いつきたいが、わたしゃ入れ歯で歯がたたない、とくりゃぁー、寅次郎も嘆く、

酔言 30

酔言 30

 多賀神社なるものが、実は日本全国至るところにあることを、ここ八王子に越して来る前はなにも知らなかった。というのは家から歩いてわずか数分そこそこのところに八王子多賀神社⛩️があり、樹々に囲まれた社(やしろ)の屋根がいつも暮色に閉ざされているのがベランダからも見えている。いつもは参拝者もまばらで、ただ近所の通り道に静かにたたずんでいるだけであった。

 もちろんこの辺りの古社であるという認識も私にはなかった。しかし、千年の時の重みはあなどれない。ひとたび境内に足を踏み入れると、社や樹々の間の鄙びた空間には、幾多の人々の念が通り過ぎて行き、その残香を境内のあらゆる物象のうちに、いまだに薫じているようである。

 昨年、四年ぶりに開催されたという八王子夏祭りには、この社からも神楽を乗せた立派な山車が出た。山車や神輿は駅前を伸びる甲州街道の特設広場に集まり、その各町会から曳きだされた数は計19台にのぼった。そして、三日間を通して85万の人手に高尾山の麓の夏が賑わった。長く住んだ世田谷でも、これほどの夏祭りには出会わなかった。

 大晦日、妻が観ている紅白歌合戦の辟易するテレビもやっと終わり、地を這うような近くの除夜の鐘がようやく聞こえ始めた頃、風に乗ったお神楽の笛や太鼓の音がベランダの窓を伝わって来た。こんな年の夜にといぶかると、居ても立っても居られず、防寒の身支度をして外に出てみることにした。

 民家の上の中天の月明かりが大晦日、年越しのさやけき夜にふさわしかった。角をまがると神社の鳥居の前にたくさんの人が列をなしている。その参拝客の列の後尾に並んで神妙にしていると、しばらくして新年に日付が変わった。突然、社の鎮まりが破れた。太鼓が鳴り、境内の明かりが一斉に灯った。まばゆいともしびの中の神楽殿が桑都千年の闇に現れ、舞台ではお獅子が舞い始めた。初詣の深夜、そんなことは初めての体験だった。

 ふと思い立ち、拝殿に上り一年の願を懸けることにした。帰りしなに柄にもなく神札所のおみくじを引いた。そこには『末の見込みがある、改めかえてすればその望事が叶い、また喜びの多い年』と書かれてあった。ひそみ居しふちにいる今、されば、改めかえるとはいったい何のことだろうか。また何の暗示なのだろうか。

 しかし、それは実は私自身にはつとにわかっていることでもあった。足もとを伸びる参道の冷えびえにもまして、そのおみくじを広げ読んだときに、しめやかな新年の境内がにわかに静寂に変わり、荒魂のようにかたく張りつめて、その不可知なものの気配に私自身の身震いがつづいた。

 多賀神社、創建は天慶元年(938年)。八王子市街地西方の鎮守として、「西の総社」と呼ばれているそうだ。境内は新撰組の解散地とも伝えきく。