さて、今日の職業訓練校の冷凍機の講義、生徒はどう聞いていただろうか。興味がなければ長い一日だったかもしれない。生徒の反応が悪ければ、講師も退屈なことに変わりはない。教室の無表情の壁はお追従よりも始末が悪い。そんな日の疲労感は私自身を根っこから否定されたようで、あと味もかなり悪い。人間性のない教師の話には人は耳を傾けないだろう。
冷凍サイクルにおけるph線図上のエンタルピーの説明、圧縮機の体積効率や断熱効率、気体の状態方程式と流体の連続法則、安全弁の吹き下がりやその弁の厳しい法的規制などの概説を話した。
しかし、こんな話を聞くのは退屈にきまっている。だから授業の出だしは、毎日必ず食うことのように、断続することなく勉強できればどんなに素晴らしいことか、寝食のもつ根源性のように、単調反復の中からしか何ものかが生産されない、黒板の前でそんな話を始めたが、生徒によってはもっと興味がなかったかもしれない。それでも私には、この単調反復というキーワードは事を深く掘り下げるための、いつでも未知の入り口となっている。
勉強することを中には苦も無くやれる人がいる。それは不思議なことで、私を含めてほとんどの人はそうではない。勉強は単調で孤独な作業であり、継続することがいかに難しく、モチベーションを保つことがどれほど困難か、そしてそうしたモチベーションを奮い立たせる方法はどこにあるのか、そんな問いを生徒に投げかけた。いつものことであり、もちろん私自身への問いでもある。
勉強は一人でするもので他人に頼っていては意味がない、そんな訓練校の講師自体を否定するような話をした。これは実はまったくの本心なのである。後先を考えずについほんとうの事を喋ってしまう。私は学校に行って設備の勉強をしたこともないし、誰かに頼ろうとしたこともない、と。
私にとって、もうその時点で学校という存在は論外である。すると心の中でそう思いながら、あるいは時には少ない経験を話して、人に教える立場にいることとは矛盾しているのではないか、と思う。しかし、矛盾は常の私である。生徒や学校から苦情があれば我慢すればいい。
では、なぜ私は学校で教えるのか? ただの偶然であり、収入のためでもあり、授業内容を通してたくさんの人との出会い、人さまをできるだけ肯定的に見ることで縁を楽しむためである。私の言う楽しむとは、もちろん、ことごとく事象から私自身を突き離し制御することでもある。
現在、病院の職場で訓練校卒業の私の生徒が半分を占めている。しかし、それは結果がそうなっただけであり、私自身がどうこうする意図はまったくなかった。人の縁はまさに偶然とタイミングだけであり、求む人と求められる人が蝶つがいのように近づいて、そこに私がたまたま関わっただけなのである。人さまの未来の選択に、私の恣意など入れる余地はないのである。