anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言  145

さて、今日の職業訓練校の冷凍機の講義、生徒はどう聞いていただろうか。興味がなければ長い一日だったかもしれない。生徒の反応が悪ければ、講師も退屈なことに変わりはない。教室の無表情の壁はお追従よりも始末が悪い。そんな日の疲労感は私自身を根っこから否定されたようで、あと味もかなり悪い。人間性のない教師の話には人は耳を傾けないだろう。

 冷凍サイクルにおけるph線図上のエンタルピーの説明、圧縮機の体積効率や断熱効率、気体の状態方程式と流体の連続法則、安全弁の吹き下がりやその弁の厳しい法的規制などの概説を話した。

 しかし、こんな話を聞くのは退屈にきまっている。だから授業の出だしは、毎日必ず食うことのように、断続することなく勉強できればどんなに素晴らしいことか、寝食のもつ根源性のように、単調反復の中からしか何ものかが生産されない、黒板の前でそんな話を始めたが、生徒によってはもっと興味がなかったかもしれない。それでも私には、この単調反復というキーワードは事を深く掘り下げるための、いつでも未知の入り口となっている。

 勉強することを中には苦も無くやれる人がいる。それは不思議なことで、私を含めてほとんどの人はそうではない。勉強は単調で孤独な作業であり、継続することがいかに難しく、モチベーションを保つことがどれほど困難か、そしてそうしたモチベーションを奮い立たせる方法はどこにあるのか、そんな問いを生徒に投げかけた。いつものことであり、もちろん私自身への問いでもある。

 勉強は一人でするもので他人に頼っていては意味がない、そんな訓練校の講師自体を否定するような話をした。これは実はまったくの本心なのである。後先を考えずについほんとうの事を喋ってしまう。私は学校に行って設備の勉強をしたこともないし、誰かに頼ろうとしたこともない、と。

 私にとって、もうその時点で学校という存在は論外である。すると心の中でそう思いながら、あるいは時には少ない経験を話して、人に教える立場にいることとは矛盾しているのではないか、と思う。しかし、矛盾は常の私である。生徒や学校から苦情があれば我慢すればいい。

 では、なぜ私は学校で教えるのか? ただの偶然であり、収入のためでもあり、授業内容を通してたくさんの人との出会い、人さまをできるだけ肯定的に見ることで縁を楽しむためである。私の言う楽しむとは、もちろん、ことごとく事象から私自身を突き離し制御することでもある。

 現在、病院の職場で訓練校卒業の私の生徒が半分を占めている。しかし、それは結果がそうなっただけであり、私自身がどうこうする意図はまったくなかった。人の縁はまさに偶然とタイミングだけであり、求む人と求められる人が蝶つがいのように近づいて、そこに私がたまたま関わっただけなのである。人さまの未来の選択に、私の恣意など入れる余地はないのである。

酔言  144

四季は結び目もなく、その盛りはいつのまにか満ちて、また人知れずほぐれては消えてしまう。気がついたときにはすでに手遅れであった。満開の桜である。人の感覚などあやういものだ。しかも私はそのいずれかの、春をとりわけ誤解していたに違いない。春たけなわのただ中で、桜の散り敷く桃色の淡いの道に慣れた目に、春は桜色とばかりに思っていたのだ。
 
  三月も末のこと、あの年の桜は例年になく早咲きであったのを思い出す。遠く春を待ちわびていた私の心をそのまま置き去りにして、少しもこちらにかまわず、桜の花はあっという間に私の鼻先で咲き匂い、その盛りの日を大股でまたぐと、あっけなく散ってしまった。
 
 桜の満開の夜、東京は昼間から北風がしだいに募った。そのまま力をつけた風は夜半から都心に吹き荒れた。冷たい雨あしがはち切れんばかりに咲き匂う桜の花房を、夜通し、横殴りに叩いていった。打擲する鞭が唸りをあげて空を切るように、時々、たわんだ桜の枝が雨中へと自在にはじけ飛んだ。

 私は不安で寝つけなかった。寝返りをするたびに、天井板の筋目がぼんやりと見えてきた。ひとひらの桜の花びらが闇の中からふいに現れ、しばらくすると壁いっぱいに花の溢れる山里の幻覚になった。その夜空に舞う桜の花びらが、次々に浮かんではまた消えていった。青白い桜の幹と落花で燃える地面、浄めの塩を撒かれたように、たちまちに木の根元が無数の花びらに覆われていった。薄桃色のちりめん皺が、そそり立つ桜の幹に張り付いていった。
 
 翌朝、外は嘘のように静かだった。枝を揺さぶる風の音も、深夜の窓ガラスを打ち鳴らす雨滴の音も聞こえなかった。青空の下、車のボンネットに貼り付いた桜の花びらが、夏の砂浜で甲羅干しをする、女性の乾いた水着に残った白い真砂にも見えた。
 
 明るい空が、すべてを忘れたように広がっていた。私の視線が車道のコンクリートの側溝に止まった。側溝はいつもは枯れ葉に埋もれて姿が見えなかったが、昨夜の雨水を大量に呼び込んで、車道をくっきりと縁どっていた。その縁取りに吹き寄せられた花びらが、溝の底の澱んだ水の流れに、生き生きとした表情を見せて浮かんでいた。暗い側溝は一筋の花びらの流れとなって緩やかに動いていた。私にはそれが、漆黒の夜空に浮かんだ天の川を思い出させた。
  
 毎年、私は桜の咲く前に、桜を迎える心の準備をしないといつも落ち着かなかった。今年はそれもできないまま、桜の盛りが去ったことをひどく悔やんだ。これも仕事の忙しさと、幾らかの私の日々の暮らしの中の心の塞ぎが、外界の移り変わりに心を閉ざした結果ではないかと思った。

 桜の枝の節々に、花芽がゆっくりと膨らんでいくのも知らず、夜中、季節変わりの荒風が吹き、花びらが誰も通らない歩道の上に、惜しげもなく吹き溜まっているのを朝方見つけて、私にとって春とは、天地(あめつち)に満ちる花の盛りではなく、見逃してしまったその喪失そのものだったのではないか、と気がついた。

 春を逃した私の意識には、今年の桜の姿がはっきりと映ってはいなかった。毎年、桜の美しさは私の心を動かし、妖しい花びらの散乱は、その魔性で私を震撼させてきた。しかし、今年の桜の散りざまは、急迫な落花という断絶で、桜の魔を断っていたはずなのだ。

 いや、そうではない。嵐の近づく夕暮れ時、その満開の桜に私は確かに驚いていた。そして、目の奥の、昼間歩いた記憶の中で、街角の所どころに、薄靄のような明るい華やぎが灯っているのに気がついてはいたのだ。その華やぎは私の記憶に明確な像を結ぶことはなかったが、その時の咲き誇る桜の姿に違いなかった。

 もしかしたら、私の感覚器官に捉えられた春の像は、私の心の中でいつしか夢のように成長して、本当の春にゆっくりと変化していくものなのかもしれない。一瞬の光明が長い歳月を経て、その人だけのかたちへと変っていくように。

酔言  143

「すべて感覚の中になかったものは、悟性の中にはない」とある中世の学僧が言ったという。この感覚とは生理学的或いは心理学的定義とは何も関係がない。感覚とは自分を超えるものとの、自分でない物との接触の由である。思想はここからしか生まれないように思えた。

 新しい職場、人、風景はその感覚の錯乱や怖れを引き起こすが、やがて観察者の自己批判を伴いながら、対象その物として静かに収斂されていく。いわゆる感覚の秩序化。しかし、それも結局は像が精密になるだけで、対象そのものにはけして到達できないのかもしれない。私たちは他人を理解することができるのだろうか?

酔言  142

酔言  142

身体の記憶

都市の熱源機器といわれるもののうちで、とくにボイラーと冷凍機は、冷暖房や空調環境にはかかせないものである。違いがあるのは冷暖の差異と、その製造方法である。

 どちらも高度に制御システムが発達した熱力学応用の世界ではあるが、そこには実は、技術上だけでなく本質的な違いがあるようにも思える。それはいったい何かと、職業訓練校で生徒に教える際に考えたことがあった。

ボイラーバーナなど、火を扱う世界には、なにか根源的なもの、原初に人を遡らせるような力がある。たとえばじっとその炎を見つめているだけで、生きていることの穏やかな観照へと、あるいは濁世塵土にまみれた己れの浄化へと誘う力がある。時として、火炎としての独特な、神秘的なものへの入り口のような荒々しい息づかいにも遭遇する。

そういえば、私の以前いた鋳鍛造の工場には「ふいご祭」というものがあった。火に対する人の怖れと感謝が、この現代の科学技術の最先端の施設とともに共存していた。今も、大きな施設のプラント工場では、ボイラーの四隅に塩を円錐形に積み、結界のようなものを作ってはその床に酒を撒いて、神に安全を祈願しているはずだ。信じられない話ではある。

 そうした行為に触れながら、あらためてひしひしと自分の中に感じることは、炎に対する人間の何万年もの記憶が途切れることなく続いて、そうした火を扱うごとの空間に、あるいは私の身体の中に脈々と繋がっているのではないか、ということだった。

温かい炎を静かに見ていると、私の皮膚に埋もれている遺伝子が一斉に動き出すのを感じるのだ。深夜、ボイラーの燃焼する炉筒の小さな覗き窓から、その奥に燃えている温かい炎を見つめて、同時に背後の壁に揺れる自分の影を感じていると、安らぎのような不思議な気持ちになっていったのだ。

 おそらく太古の昔にも、人はこうして炎を見て心の安静を保ち、瞼のうちにその姿を焼きつけてきたに違いないと、私は思わずにいられなかった。

それに比べ冷凍機械は無機質に、人を寄せつけずに冷静を保っているように見える。配管内で冷たい冷媒の気液相変化を繰り返しながら、自己のいつ終わりとも知れない完結を目指して、閉じられた閉鎖系の中で、静かに微振動を繰り返しているだけのように見える。自然の物理現象を利用しながら、しかしそれはあまりにも工夫された、人工的な世界なのだ。

 一方のボイラーはどこか野蛮で、また開放的であり、怒ったようなおのれの咆哮に自らが震えているようだ。しかもそこには、まるで私と呼応する心さえあるように思えるのだった。周りが眠りについた夜でさえ、機械室の暗がりで、彼らは声なき声をしめし合わせて、何ごとかをぶつぶつと囁いている。

酔言   141

酔言   141

あの時の、あの人の姿はまるで蓮の花と同じではなかったのかと、私はふと思った。うだつが上らずとも、四肢五体のすべてを使い、全身全霊、耳朶をうつその人の声に集中するとき、からだから力みは萎えて、口びるがかすかにゆるみ、放心の態にもみえた。そしてそんなとき、人は泥水で花ひらく、蓮のようにゆるやかな姿勢をとるものだと。

 柔らかく屈曲した腕は膝の上で印を結んでいる。静かに閉じられた瞳は幽(くら)い。目に見えない受けの円蓋をその胸の前に膨らませて、前方からくる心ある者の声を、まさにその瞳の内で見つづけているようだった。それは、何かを一心に待ち続ける、あの蓮の花と同じ姿勢をなしているようにも思えた。

酔言  140

酔言  140

あらためて、日本はこうした明快な方向を持つべきではないか。戦後、たくさんの方がそのことを考えてきただろうが、私は大方を賛成である。

 大方とは、独立軍隊を持ったとしても、武力行使抑制に対する我々日本人自身の特質に信用が置けないからである。それは国家に超越する個人の尊厳に対する思考につながる。世界に対して、我々自己の客観性の薄さにつながる。それでも海外から日本を俯瞰できる神谷氏の意見は、いつも我々の警鐘になる。

 資源のないこの狭い国土を侵略したがる国がはたしてあるのだろうか?まして、その狭い土地に特異な文化をもった、ほとんど日本語しか喋らない人間が一億二千万人もいるのだ。侵略者の本気の統治コストは膨大になることだろう。

 我々が中立を得るためには、この過去の戦争放棄の叡智をかえりみない国民の多くの現状からみて、他国への依存はそのまま続くのではないか。

 そして思いたくはないが、なし崩しに起こるさらなる破壊と灰塵の中からでしか、しかもそれは生き残った者たちによってしか実現できないのではないか。そうであるならば、私は何をしたらいいのか?

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酔言  139

酔言  139

今日もサラリーマン労働者をしっかりやった。

 法定停電作業とは、一般的に年に1回、全館を停電させて実施される。私のいる病院の場合は規模が大きいので、一般電源回路のAC系統、非常用電源回路のGC系統の2回に分けて行われる。都立病院には多くの入院患者、高度な医療機器や電源機械が多数あるので失敗は許されない。

 作業内容としては、受変電設備の点検:がある。6万6千Vの特高、6千600Vの高圧電気を100Vや200Vまで降圧する変圧器、緊急時に作動する真空遮断器や断路器の動作確認。絶縁・漏電検査: 専用の測定器(メガーなど)を使い、配線や機器の漏電の有無を調べる。清掃: 静電気による火花の原因となる埃の清掃。 非常用設備の試験: 非常用発電機や蓄電池の起動試験などがある。

 本日は通院者のいない日曜日を利用して、その後半のGC回路の停電作業だった。朝、7時半より作業開始。業者と我々病院設備の人間を入れて、総勢30名を越す作業人員だった。幸いに、復電作業も入れて、大きな不具合や事故もなく終了した。