anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

アムステルダム 2 (17)

  病院の外に出ると、一と月ぶりのパリの街は思っていたよりもまばゆく輝いていた。それに病み上がりの者には、どの街も美しく見えるものだ。けたたましくクラクションを鳴らして走り去る車さえも微笑ましかった。しかし、私には元々行く場所もなく、振り出しに戻っただけであった。しかも所持金は盗まれて、ほとんど手持ちがなくなっていた。もし日本に帰ろうとしても、片道の飛行機代もない。

 ヨーロッパを旅行先に選んだのは、そこが日本から地理的に遠い、ただそれだけの理由であった。私は数ヶ月の間、ただやみくもに各地の国境を越え、知らない街の駅に降り立ち、自動人形のように歩き続けただけであった。沢山の風景が私の前を平坦に流れて行き、珍しい食べ物も口に運んだが、なんのリアリティも実感も私にはなかった。すべては挿し絵や絵葉書の中の私のイメージより、一歩も外に出ることはなかった。そこには既製品の世界しかなかった。

 その時、私の眼前には、今、この場所から、何処にでも行ける完全な行動選択の自由があったが、目的のない旅を長く続けるには、私の自我は弱すぎたようだった。なぜなら、束縛から充分に逃れたと思ったら、今度は鎖を解いたと錯覚する自己の、それ自身の限界に身動きができなくなるのである。

 ヨーロッパのどこの街を歩いていようと、周りの景色から目を逸らし足元の大地を見れば、東京の道端に立って足元を見つめる私自身と、そこは何も変わっていないのだった。まぶたを閉じればすべてが私の前から消えた。ストックホルムやパリを、ローマやベネチアを、共産党下のモスクワやペテルブルグ、そして草枯れのシベリアの街々をたとえ歩いていようとも、私にはリアリティがまったくなかった。周囲の風景は、まるで生きる意味を鋭く反芻させられる監獄の中で、その壁に映る映像の夢を見ているようだった。

 結局はどの先へ行こうとも、私自身というどうしても乗り越えられないこの壁が、そのどん詰まりの透明な遮蔽物が、その先にはなにもない断崖が、ゆらゆらと待ち構えているだけのようにも感じられた。私にとって旅はだから、いつも辛く、泣きたくなるものでしかなかった。そしてこちらの心が変わらなければ、私を取り囲む何事も存在しないものに等しく、また一切の意味もそこから生まれることがないのだと、心に刻むことにした。