anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言  9

酔言 9 (つれづれ 改)

 平和主義と、表現の自由あるいは個人の自由が衝突することがあるだろうか?もしあるとしたら、それはどういう場合であろうか?この二つが難なく共存していれば言うことはない。しかし、何事であれ複数の価値は衝突することが多い。そしておそらく平和主義や個々の自由を、個人の価値感としても捉えた場合、私は結局、平和主義よりも後者、個人の自由をとると思われる。

 絶対非暴力主義は崇高な自己犠牲の精神をともなうだろうから、もちろんその強い覚悟がなければ他人には要求できないと思われる。そうした非日常的な場面で、自分が殺されるイメージを、あるいは不条理な死を受け入れる状況を容易に想像していなければ、あるいはできなければ、それらは唯の希望的主張になるか偽善になる。同じ主張が、仮に自分に当てはめるとそれが成り立たない他者への要求は意味をなさなくなるだろう。

 自分は甘んじて犠牲になるとして、もしかしたらその非暴力のアプローチが、紛争を避ける為の最善の方法であっても、私自身がその精神を全的に背負うことにはやはり自信がない。ここには、非暴力を自らが体現すことにより、相手の善意を信頼するわけだから、人間の善意や崇高性に対する希望や信頼が根本になければならない。

 しかし、それももちろん私には確信がない。例えば、ホロコーストの体験から書かれた『夜と霧』を読めば、人間が人間性に対する希望に至ることは稀なことであり、たとえあっても、生きることの価値や意味を根底から潰されたあとに、ほんとうにそれは奇跡的に生まれてくるものである、ということがわかる。絶対非暴力主義は、この人間の尊厳性の発見から根を発しているものでなければならない。

 いくさのない太平の中でこそ成り立つ、一部の偏狭的な武士道に、不条理な犬死にもまた最高の価値観を認めるものがある。これは死それ自体を美化することによって、生きることを完結させるものだろうが、本来はフラットのはずの美に、ある価値をのせることでその正当化を行わせているのじゃないだろうか?絶対非暴力も、あるいは平和を美化することで、無抵抗の犬死に価値をもたせることにはなりはしないだろうか。三島由紀夫には、完璧さが頂点で破壊されることで初めてその美が完成されるとの感覚があったと思われる。彼の肉体や精神も例外ではなかった。美とは実は危険なものと表裏をなす。

 犬死は本人がそう思わなければ立派な行為なのかもしれない。しかし、他人の目には違って映るだろう、特に敵に対しては。自死も犬死にも価値を認めることは個人の自由である。国家が犬死を強制させることはあってはいけないことであるが、その葉隠の犬死のように、そのことを個人の自由、表現の自由を最高の価値として追求すれば、おそらく真正のアナーキストに必然的に至るだろう。しかし、アナーキストが複数集まれば、そこに一種の自然状態が生まれ、お互いの競争や衝突が起こり、ふたたび社会が成り立たないのかもしれないが。

 憲法レベルで言えば、もちろん立憲主義的な考え方なら、その憲法条文は政府が名宛である。しかし、その条文が持っている各精神は、それが普遍的であるならば、当然個人に対しても当てはまるはずだ。

 9条の平和主義が個人の信条となった場合に、あるいは個人の自由の源泉となろう13条の幸福追求権が衝突した場合はどうするか? 私は当然、後者をとることになるだろう。つまり、自由の為なら闘うことも必要であるということだ。

 今も昔も、私にとっての日本国憲法の核心は13条でしかないのだ。私の血と肉と繋がるのはそこだけで、それ以外の条文が意味を持つには、あまりにも私の私的空間は狭い。そもそも憲法は公的空間の話ではあろうが。それが根底に兵士の素質を持った、それでいて結局はアナーキスト的であろう、私自身の説明には近いかもしれない。