anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言 33

酔言 33

一つの疑問がどうしても湧いてくるのです。個人の内的感覚に結びついていない思想なるもの、己れの感覚の担保のない思想は、たんなる精神の空転なる運動にしかすぎないのではないか、概念の組み合わせや論理的な整合性を追うだけでは必ず他者に乗り越えられるだけではないのか。

 銃弾が実際に頭の上を飛び交っていない下での、現実というテストをくぐり抜けない思弁の有効性はいかなるものか、一つのパラダイスを求める思想よりも、大多数の私を含めて愚鈍者が陥っているものの中に分けいるこそ、この世界の真理と突破口があるのではないか。

 他人の思想を語り、精細に説明することにいかほどの意味があるのか、そしてもし、孤高なる者のその努力に他者が聞き耳を傾けないときの効果はいかほどになるのか、その時は、無関心な他人を呪い、あるいは切り捨てることで自己を正当化するのか。

 わずか1500gほどの小さな一人の脳が作り出す観念や思想なるもので、現実を変えていくことができるのか、できるとしたらその源泉はいったい何か、情念か論理か、やはり自己増殖してやまない言葉の力か。

 自由なアナキストが人間本来のありようとしても、それが複数人あつまるときに、はたして社会はなりたつのか、成り立つとしてもその道筋はいかようになるのか、個人の徹底的な自由は集団の中でどう折り合いをつけるのか、そんなことが次々と頭に浮かんでくるのです。

実は私の本心は、コルク部屋からたとえ一歩も外にでなくとも、観念だけの内的劇で充分の生をいきることができると、肯定しているのですが・・。

ラディカルなものこそ実は本質的であると、私も考えます。しかし、虚無に生きる者にとって、革命だ、転向だ、戦線維持だ、世直しだという話しはどこか絵空事に感じ、ただ己れの言葉や旗振りの高揚感に酔っているにすぎないのではないかと、思うところもあるのです。正義とは、社会を断罪する使命感はアドレナリンを溢れさせ、自分自身によほど抑制的で警戒しなければ、大上段に構えた「病い」に至る危険があります。

 つまり、もしそうした闘う対象がなくなったとき、ひょっとしたらすべてが幻想であるかもしれないと、自己に反転する猜疑が生まれたときに、その時は、いかにして自分を維持するのか、と。闘う相手があって初めて自己闘争が成り立つようなもの、そこにはだれもが相対さなければならない普遍的な思想はないのではないか、と思うところがあるのです。