anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言 29

酔言 29

 父が死んだ直後のことです。遺体はまだ実家の床にありました。枕元の文机に置いた遺影が線香の煙にくすぶるとき、その魂のようなものが小さな子供の姿になって、きゃっきゃとはしゃぎながら、ほんのりとした薄明るさの中で、もちろんそれは私の心のうちの出来事だったのでしょうが、無邪気な姿となって遊んでいるのをすぐ近くに感じたことがありました。あー、もしこの世の中に霊というものがあるとしたら、安寧に死んだ直後に泉下へ帰すると、魂は子供のような形象に変わるのだと、その時、たしかに思ったのです。

 障子紙を通した庭先に揺れる燐光のように、近くに薄々感じる父が、私よりずっと歳が小さいんですよ。しかも姿は見えないが、それがなぜか幼な子だと私にははっきりと感じるんです。手を繋いで一緒に遊びたくなるのですね。皆、疲れて寝静まった通夜の深夜にですよ。そんなことは想像も考えたこともありませんでした。あたかもタイムマシンで私の存在しない過去に遡って、子供姿のほんとうの父をこっそり覗き見してしまったような気分でした。とても不思議な体験でした。もちろん同時に、父はこれでけして戻ることのない道を死者として歩き始めたのだとも感じました。尋常じゃない姿はこの世のものではありませんから。さようならを実感して、私は初めて死んだ父のために泣きました。

 子供というのは先祖の生まれ変わりのようなもので、子育ては先祖供養であると、そう思いながら実際にユニークな子育てを実践なさっている方がいらっしゃいます。私にはその本当のところの理由はわかりません。しかし、それが実に理にかなって自然なことと感じるのです。突飛な考えとは思えないのです。私には子供はいませんが、そうした考え方の中に、なるほどなと腑に落ちて、しかも納得させる大切なものがあるのですね、なぜでしょうか。

 おそらく生命の連続性、それはあらゆる生物界で繰り返されていることであり、すべてが平衡に散逸していくなかに、あえて逆向して自己組織化する働きには普遍性と、あるいはなにか特別の意味があるものかと思われます。人が理にかなっていると感じることには多方、なにかの理由があるわけですが、お聞きしたいものです。なぜならそうした深い直感に裏付けされた思想なり概念は実は非常に合理的であり、如何なる理屈に晒されても破綻をきたさないものと考えます。

 私は以前、子供とは私たちの所有欲の最たるものと感じ、あるいは私個人の社会からの責任逃れの為だったのか、私自身がこの世に何ものも残したくないことも相まって、そこは注意して、子供をあえてつくらなかったのですが、そのことについては今も後悔はしておりません。それに世の中、親子関係がうまくいくことは、実は少ないのではないかと思うのです。なぜ、私が望みもしないのにこの世に生まれ出て、あれこれと苦労しなきゃならないのか、そんな風に自分を思っている方も多いのではないかと感じるのです。

 しかし、血のつながりのなかった父が死んだときも、そうした不思議な体験があったことからしても、親子の関係とは、私のようなもでも、縁の最たるもの、特別なものと思わざるおえないのです。ではなにが特別だったのか、子供は親を選んで生まれてはこれませんから、特別な理由を子供に押しつけるのは酷というべきでしょうか。あるいは特別なものであるとしても、そこを強調することがその先に何につながっていくのでしょうか、そのあたりが私にはよくわからないこともあります。

 私の存在はもちろん産みの親がいるわけで、あるいはそのまた親がいて、その先は途絶えることなく幽暗の一点に繋がっていき、私が今こうしてある厳然の事実があるのです。しかし、そうしたいっさいの情報が私には皆無である場合、あるいはそんなことからは私自身を遮断しようと決意したとき、その血縁というものを特別視することは、私に何をもたらすのか、そして何を意味するのか、そのあたりが実は分からないということもあるんですね。