anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言 16

酔言 16

毎日の忙しさに手も足も出ず、私にとってはウクライナの戦禍さえも、まるで遠い出来事のように思えてしまう。ミャンマーの罪禍もまた同じだ。これが良いのか悪いのか、まさに私自身が世界の出来事から離れ、病院機械を相手に、あるいは訓練校の不安な生徒の顔を見ながら、私自身が閉じこもりのような状態でもある。

 それでも何がしかの少ないお給金を毎月貰っていさえすれば、街中の映画館の観客のように、暗点の一席にうずくまり、そのスクリーンに一喜一憂するばかりか、遠く戦禍を遠景として、人ごとのように小市民の喜怒哀楽に生きて行けるものだ。まがりなりにも砲弾が飛び交うことのないこの平和で安楽を良しとするか、この極東の島国にも再び迫る戦さの足音に備えるか、いったいどのようなあり方が正しいのだろうか。

 なにしろニュースや新聞も、たまたま目にすること以外は関心事の 範囲外になっている。さらに悪いことにはその少ないニュースであっても、私の好みや関心のバイアスのかかった情報を取り込んでいるにすぎないものだから、それではますます「私」という偏向に向かう可能性がある。歳とともにそれは顕著になるだろう。それならいっそのこと、マスコミ報道なんかに耳を閉じてしまえばいいではないか。簡単なことだ。

 逆に言えば、私事に身も心もどっぷりと囚われている私自身は、その小さな世界から外に出て行く余裕がないのである。もしかしたら、多くのサラリーマンはそういう人たちが大半なのではないだろうか。理想よりパンは強しだ。そして、その日常のパンを凌駕するためには、私の頭上を実際に弾丸が飛び交うか、あるいは理想が現れたとしてもそれは目を見張るような深刻でしかも斬新な、食べることを忘れてしまうぐらいの私の心を打つものでなければならない。

 はたして、今、この世界にそんなものがあるのだろうか?思い込みと掛け声は巷に溢れているが、それだけではパンを求めて止まない大多数の他人は動かない。そして畑を耕すように自分自身の生活から種を宿さない思想や政治に、他人の思想や異質な思い方を攻撃することに、概念操作や整合性の辻褄合わせに、どれだけ人を動かす力があるのだろうか。
 
 要は、繰り返し繰り返し現れてくるそれぞれの日常性という鉄壁を壊すことのない限り、多くの人間がそれぞれの仕方で落ち込みもがきながら、そこからどうすることもできずにいる、その出発点である生の自家撞着的な現実を深く認識しないでの、個人の生活範囲を越えて共感や希望の原理的な洞察や、そうしたところの葛藤のない飛躍した政治理想とは、どんなものでも説得力がないであろう、と私は思う。

 足もとも振り固めず、何事にも断罪する正義のドーパミンに、実は麻薬中毒のように気がつかなくなる輩のなんと多いことだろうかとも思う。私もそうである。もし対象に真摯に無限地獄のように深く、繰り返し当たれば、必ず己れの限界という「私」自身が現れてくるはずなのだ。だからこそ、まさにその過程に於いてだけ、対象との距離が生まれ、時や場所を超えた強い批判精神が表れてくる。時空を超えて行けるのは理論や思い込みではなく、客観的視された「私」が放射するその残像だけである。本物の職人だって、唯一無二の思想家だって皆そうだ。

 そんな私でも、ゼレンスキー大統領の広島平和公園での服装に、激しく違和感を感じた日本人が多いのには驚いた。逆に私は彼のあの黒いTシャツに、それは実にシンプルに彼の慰霊の気持ちが表れていると感じたからだった。もしかしたらプーチンロシアの侵攻後、これほどまでに頑なな彼の軽装は、食べるものも住むところも破壊された自国民に対しての彼のぎりぎりの質素という決意を表しているのではないか、とも私には思われた。

 少なくとも安全な堀の中で武器を売りつける他国の指導者たちと、同じネクタイをしめたビジネス習慣に立つ必要などまったくないと私には思われる。もし彼の黒のTシャツが慰霊に対して不敬であるならば、なぜこの場にふさわしい「喪服」を着用しない他の指導者たちをその同じ理由で批難しないのか。服装は単にその時その場の習慣に過ぎないだろう。それとも、板前が割烹着の下にネクタイをしめてカウンターに立つ姿に違和感を感じるのは私だけなのだろうか。

 極東の巷に散見する、彼の姿がたくさんの原爆犠牲者が出ている日本国民に対して、あるいは広島で被爆して亡くなった人たちへの侮辱行為とはとても思えなかったのだ。G7やゼレンスキーが来日するその理由に戦争遂行の為のイベントと、当然反対する意見もあるだろう。しかし、一方の当事者である指導者たちが広島の平和記念博物館を訪れ、過去の惨禍の記憶に直に触れることに意味がないわけではない。慰霊自体は、政治的思惑やそれぞれの慣習から、ましてや見る側の価値判断から自由になって行わられるべきと考える。靖国しかり。