anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

狂桜 改

狂桜 改

 拝啓

貴女のお顔を拝見できなくなり、随分と久しく、月日だけは徒らに流れて行きました。それでもその叶わぬ悲しみが、今の今まで、貴女に偶然出会えた喜びの、色褪せることには少しもなりませんでした。今年でもう幾度になりましょう、また桜の花咲く季節を迎えることになりましたのは。そう、貴女にお会いできないこの寂しさは、こうして周りの景色がいやさかの春の到来なのに、まるであの降り積もる、季節はずれの桜隠しの雪のように、私の中ではつのっていくばかりなのです。


 その後いかがお過ごしでしょうか? このところ、東京もずいぶんと暖かくなりました。昨日など、ベランダ近くの室内のソファにもたれかかり外を眺めていたところ、気がつくと、ついうたた寝をしている自分がいました。浅い夢の中、近くを流れる神田川の深堀の川床に咲いていた菜の花が広がり、目が覚めても、私の視界からその鮮やかな花の色は消えていませんでした。そして日に日に、朝夕の肌寒も緩んでまいりましたね。トレーナーの中のいつも着ている肌着を一枚脱いで、陽の当たる日中、治療と称して、看護師さんに付き添われながら院内の広い庭を歩いていると、それはもう胸や背中にじわりと汗が滲んでくるほどです。固くこわばっていた私達の冬の立ち振舞いも、萎えた心も、自然と柔らかくほぐれて、病院内の騒ぎたつ通院患者の姿に、私が眉をしかめるようなこともすっかり少なくなりました。


 ところで今日はとても嬉しいことがありました。ここ都心にもようやく桜の花が咲き始めたのです。やっと待ちに待った桜でした。隣の病棟の蒼い屋根の上を、たくさんの桜の枝が広々と空に伸びて塞いでいるのがここからも眺められます。冬の間、この枝の隙間を、小鳥達が明るく囀りながら飛び交っていました。そしてその先に、冬の空の眩しく青い広がりがいつも見えていました。そこは私にはけして手の届かない自由な世界と繋がっていましたが、それでもじっと見つめていると、胸をかきむしるような居たたまれなさに襲われることが多かったのです。


 でも、今はもう春です。小さな窓ガラスの向こうに貴女への想いを追いながら、癲狂病院の一室の窓辺にこうして座って、ぼんやりと外を眺めています。その桜の古木をよく見ると、陽のあたっている空に近い上方の秀(ほ)つ枝に、開き始めたつぼみのうす紅が所々に混じって見えます。来週にはきっとこの同じ空が、風に舞う桜の花びらの薄紅のひと色に染まり、日ごと下枝(しづえ)にも暖かい風が吹くほどに、地を這う下草も一斉に若草色になびくのでしょう。もうすぐ空には、いっぱいの匂うがごとく春の息吹がやって来るはずです。満開の桜も、花びらの一面に散り敷く淡いの道も、冬の間に閉ざした私達の心をもう一度開けば、すぐそこに見えてくるはずです。

 
 あれは私の転職もどうにか決まり、身支度にあれこれとせわしなかった春の、そしてたしか今頃の季節だったでしょうか、貴女と肩を並べて歩いた隅田川の堤の桜は、それはそれは見事なものでした。歩く道の、堤防を駈け上がる川風はとても心地よく、貴女はしばらくして暑そうにしながら栗色の襟巻きを外しましたよね。私達を導くゆるやかな風には微かな潮の香もしていました。あの辺りからもう少し川下へ歩いて行くと、そこはもう東京湾の海が見えてくるはずでした。夕なぎの潮目が変われば、海鳥も隅田川を上ってこの近くまで飛んでくると聞いていました。


 でも、あの時はどうだったのでしょうか? 実はその時の周りの記憶が私にはほとんどないのです。今覚えているのは、貴女の温かいその手の感触と、川向こうの満開の桜の花の姿だけなのです。燃えるようなあかね色の夕陽が、遠くの対岸に並びたつ桜の樹々をつつみ込んでいました。その夕陽に射られたたくさんの小さな花びらが、枝々を揺らす風のように、川面に落ちていくのがこちらからもはっきりと見えました。花吹雪きがすべての立ち止りした時空の上に音もなく現れて、まるで対岸にゆらゆらと揺曳しているステンドグラスの中の無数の光点にも見えました。


 それは、そうですね紅に燃える紙吹雪と言ったらいいでしょうか、一日の終わりに力なく退いていく夕陽の意思のようなものが、数え切れないほどの花びらに命を託して、きらきらと川向こうに輝いているようにも見えました。あるものは川風に抱かれて寄り集まり、桜並木の堤の上をふらふらと旋回したかと思うと、すぐにまた急直下するたくさんの火の粉になりました。そして翳りが深まる隅田川の波頭に向かって、自らの命を燃やし尽くすかのように、次から次へと連鎖の輪になって、吸い込まれては消えて行きました。


 私は思わず、息が止まるほど見つめました。光の軌跡を描く花びらの、この世のものとも思えないその途絶えることのない動きをです。まさに宙に揺籃する光のつぶてでした。それは夕陽の中で生き物のように浮き沈み、霧状に膨らんではまた狭まり、糸状になるかと思えば素早く散開して形を次々に変えいきました。息途絶えて失墜した後も、隅田川を自らの桜色に染めて、蛇行する帯のように東京湾に流れて行きました。


 ふと我にかえった時、私の中にもその花びらが深々と降りそそいでおりました。心に押す花びらの印影が、どこからやってきてどこに流れて行くのもわからないほど、それは終わりなく続いていました。美の氾濫は、私と物象の境目を失くしているようでした。意識の中に現れた桜の花は幻なのか、花散らしの中にいるこの私こそがほんとうの幻であるのか、それでもすべてが夢の中の刹那にすぎないようで、ただどちらも疑いようもない美を媒介として、私と物との表裏一体を、鏡のように映し出しているようにも思えました。


 しかし、確かなことだったのは、私は貴女の手を強く握りしめ、息をひそめて貴女を隣につよく感じ、その落花の光の眩い散乱へ、このままどこまでも一緒に歩いて行くことができたのなら、どんなに幸せなことかと願ったことでした。私はその時、この一瞬の永遠を手に入れる為なら、自分の命さえも惜しまず美の神に差し出したに違いないと、今でも思っているのです。


 ここ数週間、私といえば、職場である都立病院に通う途中の住宅街の路地裏で、ほころび始めた樹々のつぼみに癒される毎日でした。立春が過ぎたころから、梅や木蓮の花芽が目に見えて膨らみ始め、樹々が入り日に翳るとき、枝々のもつ筋張ったような頑なさも、心なしか緩んできたように見えました。


 すると折からの暖かい夜風のひと吹きで、蕾みの先の切れ込みに、朱や白蝋色がさっと注し始めたのです。それは無地で無音のカンバスに、最初の一筆が刷(は)かれたような塩梅でした。この自然の一筆に、冬枯れに朽ちた周りの景色までが急に引き締まった顔をして、花芽の色づきを背後から引き立てているようにも見えました。そしてそんなつぼみのほころびに癒されながらも、私の心の中では、貴女の面影をけして忘れることはできませんでした。

  
 私はいつもこの時季のつぼみの姿に、どこか「希望」という言葉が脳裏に浮んでくるのです。それは一点の曇りも無いこの世の清らかさが、この人害に汚れた地上へすうっと発芽するような趣きなのですね。貴女の指さきがもつ同じ清らかさが私の胸を打つのです。でも残念なことに、一旦花が開いてしまえば、この世の塵埃に無防備にさらされて、その無垢をあっという間に失ってしまうような気がします。そうしてさらに時が過ぎ、どの花弁にも世間の騒がしさが映る頃、どうにも興ざめの姿になってしまうのです。


 一方の、これからという朝寒の小ぶりのつぼみには、どこまでも凛とした清々しさが残っているように見えます。春の暖かさに大気も緩み、固いつぼみが朱や黄に少しづつ染まりながら、おちこちの庭に弾けるとき、お互いに離れて脈絡のなかった樹々の生命力が、私たちの目の前で横一線に見事に揃って、清浄を水しぶきのようにほとばらせます。しかし、それでも貴女の微笑みには比べようもありませんが。

 
 今日は病室の庭に面した窓から、三分咲きの桜が見えました。朝にはまだ咲いていなかったのに、暖かな春の陽射しを一日中浴びて、夕方には華やかな花の影が、隣の病棟の屋根の上で、枝々を覆い隠すように広がっていました。それはすばらしく大きな古樹です。鱗のような樹皮は深い皺を刻み、地面より上の人の背の高さまで、びっしりと苔に覆われています。昔、この桜の古樹は病院がまだ癲(てん)狂院と呼ばれていた頃に、収容された患者達によって植えられたものなのだそうです。


 その桜の古樹は私にはどこか妖気を漂わせて見えます。もの言わぬ堂々とした枝ぶりにも、孤独で物憂げな表情があります。そして何よりも、私の身の内に潜む見たくもない狂気が目の前に引き出され、桜の樹と共振させられてしまう怖さを感じます。この病院に入院している患者たちのもつ狂気を根もとから一心不乱に吸い上げて、毎年この時季になると、空高くその癲狂の種を四方に散らし、花びらとともに天(あま)つ空に、彼らの狂気を返しているかのようです。誰かがどこかでその種を受けとるにきまっています。


 それはまるで意識の中継装置ではないでしょうか。もしかしたら世の中の人の心の種さえも、違った形で種子が育ち、天地の間を季節とともに循環しているのかもしれませんね。きっと貴女に恋惑う私の心も狂気になって、この目の前の古木から、桜の空に向かって立ち昇っているのでしょうか。私の狂おしい、ネジの外れた頭ではよくわかりません。

 
 天気予報によれば、明日は、寒冷前線の通過にともない、春の嵐がやって来るそうです。満を持して咲き始めた桜にとっては災難なことですね。咲き乱れる花の夢にうなされるほどに待ちわびた桜が、目覚めてみればすでに嵐と消えていた、なんていうことにもなりかねません。でも私はひょっとしたら、心の底でそうなることを望んでいるような気もするんですよ。目の前の桜の花は妖しい美しさを湛えています。でもそれは近寄りがたい生命充実の体現なのです。


 しかしながら、その美しさは魔性そのものです。貴女のもつ魔性が私を停止不能にしたように、その美しさに秘められた破壊的な荒々しさで、この春たけなわになると、私の中の、何もかもをひっさらっていくような感じなのです。開花とともに、少しずつ張りつめていく狂気を宿したその美しさ、その後にくる落花のさ中の繊細さの極み、風もなく地に落ちるひとひらの桜の花びらは、我々の生きている時や空間をも跳び越えて、軒下の遮光のとばりに螺旋を描いて消えたかと思うと、そのまま光も届かない地面に口を開けた玄(くろ)い暗きょの中へと消えてしまうように見えます。後には、残された者の、桜の花びらを追って宙を彷徨う眼ざしと、果てのない溜息しか残りません。

 
 美自身がまさにその本体であるものは、見る私の心を芯から疲れさせるだけなのです。美しいものとは残酷な剣です。そこに希望などというものはめったに見いだせないのです。まして、貴女に一目会えない苦しみから、自らの恋止(や)みを望むほどに、私の胸の炎は燃え上がり、貴女にお会いもできず、貴女と思い出をつくるあてもなく、ただいたずらに時を過ごす、虚しき空に消えていく私の心には。

 
 どうぞ貴女のつつがないそのお顔を、また一目でいいから拝見いたしたく存じます。貴女の息が私の肩に触れるその時を、どんなに待ち望んでいるか、私のやるせないこの気持ちをどうかお察しくださいませ。きっと咲き乱れる桜の花が私を狂わす前に、このままでは空(うつ)蝉の貴女の幻に、私の気が狂(ふ)れてしまうかもしれません。いやひょっとしたら、もうすでに他人が見れば狂れているに違いないのです。いにしえも、今もゆくさきも、ただ貴女の私でいるばかりです。