anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言 17

酔言 17

 4階のベランダの窓越しに高尾山の山影が見える。眼下にはその高尾山から流れ下ってきた渓流のちゃちで小ぶりな川瀬が見え隠れしている。渓流というよりはもう立派な川かもしれない。いや、地図で調べると一級河川でもあった。その南浅川は夏風にそよぐ葦原の中をうずもれて流れているようにも見える。そのまま目を上流にそらすと、川床から突き出した小岩に座る編笠をかぶった一人の老人が釣り糸を垂らしていたのだが、周りを波のように揺れ始めた葦の影があっという間に彼をのみ込むと、いそいそと身支度をするシルエットだけがそこに残った。

 急に寂しさが眼下に広がった。遠く川向うの目路の先には、どこの田舎にもありそうな薄靄の中の低い山並みが続いている。その翳り始めた群山の連なりのちょうど脊梁あたりに、真っ赤に燃えた熟柿のような夕陽が今にも落ちて行こうとしていた。高尾山は夕陽を受けて、いつの間にか闇に浮かんでいた。風の音も川瀬の音も聞こえてこなかった。

 それでも、これが日本人の原風景であるのだと、音もしない風に乗って、懐かしいような、なんで今ごろになって気がついたのかと呆れた声がその川瀬から私の耳に聞こえてくるようだった。それはあるいはメニエールの予兆から来る幻聴だったのかもしれない。たしかに新しい紙袋に入った飲み薬は机の引き出しに入れてあった。家のすぐ目の前を流れていく浅川の支流、そこから川沿いの土手を自転車で15分も走れば、いつの間にか高尾山口駅に辿り着く。

 こうして都心からの急な引越しと、何がしどころの所長代理と、あるいは訓練校への出講と、梅雨どきの低気圧の嫌なゆらぎの中、宿痾のメニエールがまた出そうで出ないスリルを微かに耳朶の奥や皮膚の底に感じながら、この数週間、書くこともなく、つまりは言葉に取り憑かれないまま、私の生活など結局は書くという行為がなくとも微塵も変わりはしないものだと、早い話が書くことを要求されない人間だと思われ、ため息混じりの実感を強く思いつつ過ごしただけだった。しかし、反対に、日々の生活はうそのように慌ただしく流れて行くばかりだった。

 だが、とにかくそんな風に働くことへの、世間のしきたりに合わせて時間潰しができる幸せに浸りながら、しかし、残念にもほんの片時も、何事からも私自身の凝り固まった、既成の押しつけられた時がほどけて蜜を味わうことはなく、だからというわけではあるまいが、けして自分自身をそうした世間的で表面的なことに甘やかさず、実は私がやらなきゃならない漠然としたあることは、いつも頭から執拗に離れないことに自分でも驚く。

 さて、それは何か?こうして酒を呑むことか、安上がりの酒肆に一人うずくまり自分のささやかな時間を取り戻すことか、それとも朝から夕方までのたまたま触れ合う他者を受け入れるその秘儀に、他人を受け入れる激しさこそを私は本当は望まんとして、しかしながら、はなからあきらめてはそんな込み入った秘密を改めて発見することに憧れていただけなのだろうか。

 あらゆる意味のないことに、どれだけ意味づけすることができるのか、美しいものが、美の怖さと充溢がすべての価値を凌駕するその瞬間を、自分自身にまた何としても引き入れたいものか、けして止まることのないように見える見掛け倒しの時の流れを堰き止め、中空の一点にいつまでもわだかまっていたいだけなのか、ただただ無意味な世界に、いまさらながらどろりとした私の小さな汚泥を残したいのか、しかしそれは欲張りというものだろう。おそらくは私の内側から、私自身であり幻想の本体である時の正体を執拗に知りたいだけなのか、それは分からない。