anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言 10

酔言 10

今日も職場では色々なことがあった。しかし、それは生きていくためにはしょうがないことで、取り立てて話すほどのことでもない。まして大小色々の、その中身は日替わりであって、人それぞれ、誰にとっても日常のことであろう。人はよく言う、私は今、だれよりも苦しんでいると、たしかにそうかもしれないが、そんなことは他人にとってはどうでもいいことなのだ。もちろん、そのどうでもいいことの中には、他人から見た私自身が当てはまることもまた間違いない。

 しかし、そのどうでもいいことが、自他の境を乗り越えてたまたま肺腑をえぐるときに、真の慈愛が生まれるのではないか。この世の中、無関心の原則はなによりも不動だ。それが鉄則であり実相なのだ。なにも非情なことではない。私にとってはやっと前に自由がひらけてくるとも言える。そう考えれば多くのことに納得がいき、他者との関係性は逆にうまく行く。

 そして、他人を許せないことの大半は実は自愛から生まれているものと考える。傷つけられて、卑しめられた私をそのままにするのをけして許せないのである。とにかくそうした場合、目の前の他者という存在の陰に、自分自分、あるいは私私と声なき連呼の声が聞こえてくるのだ。それはどこまで行っても自愛の羅列に見える。その時の他者とは、それ自身本来の他者ではなく、紐つきの私自身であるのではないか。たまたま奴がいなければ私は殺人者にならなかったし、この私でなければ彼は殺されなかったかもしれない。そうしてすべての関係性は相対的であるだろう。

 年末の火葬場にはそんな連中が、冷たいお棺の中で声も立てられず、永遠に封印をされて並列をなし、綺麗に箱詰めされた歳末商品のように、ストレッチャーの上で焼かれる順番を待っていた。たくさんの黒服の見物人たちがその周りを取り囲んでは涙をながし、あるいは神妙にしていた。ひょっとしたら、そのストレッチャーの上に居たのは私自身であったのかもしれないと、焼却炉が横並びに広がる明るい午後の、冬の淡い日射しが長い廊下の窓に差し込む焼き場の隅で眺めていた。

 帰る途中、いつものように安酒場で一杯やりながら、この、再び「戦前」になるかもしれないという日本国の住民として、この先、いったい何が起こるのか、少なくとも戦争になれば、私の生活の基盤は激変するだろう。そしておそらく、ますます嫌な世の中になるのだろうと、そんなことを漠然と思いながら、こうして独り一杯やるのは悪くないのかもしれない。

 ロシア・ウクライナ戦火のように、庶民をわけなく、私たちの命まで奪う馬鹿馬鹿しい世の中が来るのだ。いや、そうしたカタストロフィを想像しながら、酒を呑むのは、酒呑みにはいいことであり、しらふには及びがたいことであろう。第一、そうした破壊の想像ですら、今はまだ酒仙の力を借りてである。さらに酒仙の神はこっそりと囁く、いくさの殺し合いの最中でも、表現者の役割はあるのであって、私の命が失われる瞬間に何を思うか、それが残されれば私の命など、やっと生きるに値することになるのではないかとも。困ったものだ。

 いやいや、そんなカタストロフィではなく、戦争抑止におそらくは適性を欠いた与野党の政治家が跋扈する、現在の日本の政治をかえりみて、今や亡き人のような、峻立して孤独な9条を思い出しながら呑む酒が、どうせ金を払って呑むならば悪酔いもせず、うまい酒にはなりそうだ。小さな希望は酒が冴える。やはりこれからも私はそうありたい。そもそもいくさになれば、私のような若くもない酒呑みなんぞは、真っ先にお払い箱になるしかないではないか。お払い箱は望むところだか、想像もしたくない世の中である。