anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

立憲民主党、泉氏

立憲民主党、泉氏の発言を再び思う。

 天皇弥栄(すめらぎいやさか)とは、皇統が途切れることなく、天皇の世がますます栄えるように、との意味があるわけで、それは、戦後、日本国憲法下、そして保守派がよく言葉にする国柄が、私の感覚とはまったく違うわけですよ。彼は単に皇室と言葉を濁していますが、同じ考えでしょう。

 また、「国家安泰」とは、権力者、あるいは靖国や神宮が祈願に使う言葉で、立憲を党名にしている野党党首が使う言葉にはまるで似つかわしくはない、のでしょうか。

 さらに、「五穀豊穣」とは、古来、新嘗祭などで天皇天照大神に祈るときに使われた言葉で、皇室儀式と深く関わった言葉であり、泉氏はいつ皇室の一員になったのだろう?ようは、これらの言葉の背後には、立憲主義国民主権の統治とは、考え方のまったく違う世界観があるのではないでしょうか?

 貴方の言葉の使い方が、本人だけが意味の分かる私的言語の範囲にあれば問題はありませんが、しかし、その「使用」に注目したときには、私的ではなく公的な言語使用の状況に目が向けられることにもなるのです。ウィトゲンシュタインは述べています。「言葉の意味とは言語内におけるその使用である」と。

 こうした戦前を彷彿とさせる言葉を安易に使う、あるいはそれが信念であれば尚更、立憲の名前に値しない野党第一党の党首ではないでしょか?もし言葉の意味することが政治家としての信念ならば、私には自民や維新の政党があればそれでもう充分ですよ。党勢拡大、票取りのリップサービスならば、失うものも小さくはない。

 この特殊な歴史をもった日本という国において、まさに政教分離に、その政治と宗教の緊張関係に、権力の暴走と抑制に、つまるところ「立憲主義」に極めて鈍感な政治家は、ひたひたと迫るいくさの臭いに怯える私には、その戦争抑止に適性のない政治家と思わざるおえません。

「平和」という貴方の言葉の、なんと耳あたりのよい響きに、我々には聞こえてくるのだろうか。あまりにも手垢のついた「平和」というこの言葉を、再び生きかえらすには、残念ながら、公人と私人との区別の曖昧な、政治家としての貴方を信頼するわけにはいかないのです。

 天皇、皇室崇拝はまったくの自由ですよ。靖国神社伊勢神宮参拝もしかりです。ひょっとしたら貴方が統一教会の信仰者であっても、私は他の人のようにあれこれと問わないかもしれない。しかし、それは「私人」としての貴方の心の中に、行動にだけ収めていただきたいものです。なぜなら、そうすることが歴史を学ぶこと、立憲主義を守ることではないでしょうか。

 人はだれでも、意識的にも無意識にも自分が尊いと思うことを、他人に強要できることの理由はないはずです。しかし、油断をすると、そのことを国家という存在は易々とできてしまうのです。