anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

紫陽花

紫陽花

山手線ターミナル駅の一つに降りた。夕方、改札口は打ち寄せる人波に決壊しそうだった。地下通路を上がり公衆電話の並ぶ北口を出ると、狭い路地に飲食店や飲屋が続いているのが見えた。それが途切れるあたりの場末の淫靡なネオン街に向かって私達は歩いていた。

 帰宅帰りのサラリーマンや客引きに混じって、肩を組んであっけらかんとした若い恋人同士や、見るからに歳の差のあるわけありのカップルが、狭い通りを同じ目的で歩いていた。

 しかし、彼らは皆、表情は幸せそうだったが、結局は見通しのきかない高い代償をともなう男女の行き止まりに向かって、そのあと戻りのできない暗い道を、陰火に引き寄せられながら歩いているようにしか見えなかった。

 私は隣を歩く彼女の顔をちらりと覗いたが、その能面のような表情からは心の中を何も読むことはできなかった。私の呼吸は乱れて、それを隠そうと変に押し黙っていたが、こうなることがずっと以前から定まっていた既定の行為のように振る舞う彼女の無表情な様子は、私を少し怖気づかせた。

ホテルの一室は階段を降りたところの地階にあった。黴のすえたような臭いがすぐに鼻をついた。鍵を開けて部屋に入ると、ビジネスホテルのような寒々とした大きなベッドが部屋の真ん中にぽつりとあった。ありきたりの丸テーブルに粉茶の湯呑みとポットが置かれている。枕元には小さな冷蔵庫が時々壊れそうな唸り声を立てて青白く震えていた。

 窓はなかった。奥の壁の足元の低いところに横に細長い曇りガラスがはめ込まれていた。そら色の花の影がぼんやりとそこに映っているのが見えていた。薄暗い部屋の中で私達は暗室に置かれた素焼きの壺のように黙っていた。私達は見つめ合っていたが、相手の顔の上に、曇りガラスを通して外の碧い光がしだいに広がり、滲んでいくように思えた。

こんな地下なのにと不思議に思った。私はその曇りガラスを開けてみた。埃と油に固まりかけていた錠が、驚いたような小さな吃音を立てて私の指にあらがった。少し開いただけで湿った黴の臭いがどっと部屋の中に流れ込んできた。外はすぐせり上がった隣ビルの濡れたコンクリートの壁だった。空から切り込まれた狭い空間の、井戸の底のような僅かな息苦しい地面に、雨雲からの淡い光が申しわけなさそうに落ちているだけだった。

 光の底にひと群れの紫陽花が咲いている。私が窓を閉めた後も、その紫陽花が雨に打たれて微かな葉音を立てているのがガラス越しに聞こえてきた。葉を打つ柔らかい雨音は、私の耳に女の肌のきめ細かさそのもののように思えた。しだいに単調な雨のリズムが私を眠りに包んでいった。

私の耳元で彼女の声が遠く聞こえできた。辛いわ、お願いだから、私を貴方から離れられないからだにして欲しいの、もっともっと貴方に虐められて、みっともなく、あなたの胸に泣きつきたいのに・・。貴方は何もしてくれないのね、私のことほんとは嫌いになったの?

以前、この花が咲く頃、彼女が囁いた声が、私の脳裏をふとよぎって正気に戻った私は、彼女のからだをふたたび自分の方へと強く引き寄せると、曇りガラスの外で、葉音を立てて一途に濡れている紫陽花の花房を手折るように、彼女の茂みに荒々しく手を差し入れた。