anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

松沢日記 40

 今年の夏の間、病院別棟の熱源機器が集中しているエネルギーセンター、その一番奥にある人気のないボイラー室は換気がしっかり効いているはずであったが、それでも室温はいつも45℃を軽く越えていただろうか。なにしろ蒸気をつくる貫流ボイラーには冷房は必要ない。まして部屋の外から取り入れる外気そのものが例年になく暑かったのだ。もっともボイラーは自動運転をしており、私たちは本館の防災センターでその燃焼を監視できる。だから、何か機械や設備に異常がない限り、ボイラー室にはあまり立ち入らないですむ。

 この小さなコンビニほどの殺風景な空間はボイラー本体はもちろん、蒸気やガス配管、給水や油送ポンプ、蒸気ヘッダーや復水タンク、軟水器、そして各種の制御盤でひしめいている。憩いの場所とはとても言えないが、それでも人の喧騒から逃れるのにはもってこいの場所であった。

 それにしても暑くて長い夏だった。春や秋がこの日本からなくなるのではないかと思えたほどだった。もっとも関係者以外はこの部屋には入られず、人目を避けて一人になるのにこれ以上ふさわしい場所はなかった。病棟で見かけるパイプ椅子に座って10分も目をつぶっていると、額や背中から汗が噴き出てくる。ボイラーの出す熱の塊りが時折、調子の悪いドライアーの風のように顔を撫でて行くのが分かる。それでも低く地を這うバーナーのリズミカルに燃焼する音や、とりとめもない群衆のざわめきにもどこか似ている排気ファンの音を独り座って聞いていると、心がしだいに落ち着いていく。私自身を取り戻していくのだ。

 そうした私自身を取り戻す感覚は確実に身体の深いところから湧き出てくるものであって、この閉鎖された特殊な空間が、私の中のなにものかと共鳴し合って感覚を鋭く覚醒させているものと思われる。その覚醒は別にボイラー室にいるときばかりではない。私自身を取り戻す? いったいこの感覚は何を意味しているのだろうか?

 風を切るような燃焼音、悲鳴のように大きな音を立てて回る給水ポンプの音、単時間で発停を繰り返す貫流ボイラーの押し込みファン、それらが目をつぶって聞くともなしに聞いていると、波打ち際で反復して打ち寄せる波のように柔らかく私を包み込んで、私の中から私自身が立ち現れてくるのだ。

 私自身? しかしなぜ、それをあらためて私自身と感じるのだろうか?人と話している時、仕事をしているとき、食事をしているとき、どの場面でもそれは私自身であるはずだ。しかし、こうしてボイラー室のたゆむことのない騒音がリズミカルに私を揺らし続ける中にいると、反復繰り返しのリズムが私の中の何ものかを覚醒させる。それが懲りに固まって閉ざされた私自身の空間を押し広げていくように感じる。感覚の底に忘れかけていた私自身のリズム、それはおそらくそこに微かな私の固有の時間が流れていることを確認することにつながるものと思われる。