anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

人物譚 米軍基地編 改

人物譚 米軍基地編 

(1)
 
  ひょっとしたら、あらゆる実体はそれが幻だとして、積み重ねては容易に崩される積み木細工のように儚いものではあるが、それでも人の縁とはしぶとくその後の私たち自身を規定する。しかも、思い出したくはないのに思い出し、刻まれたくはなくとも刻み込まれた深浅の、様々な傷を記憶に残していく。そう考えるとこの世の中、私たち個々の実体よりも、その間を途絶えることなく生成消滅を繰り返すまさにその関係性こそが、実は本質的でなものであり、また意味あることのすべてなのかもしれないと思えることさえある。

 今になって振り返れば、Hとは付き合いは消滅したが、私をこの設備業に誘ってくれた大恩人だった。そして私と同じ故郷を持つ先輩でもあった。彼の中を流れている血は、私の生まれ育った北国の、明治開拓民の祖先の流れた血と同じものであり、そうした環境からまっすぐに育まれたものであって、あの荒涼とした北海道の大地に、目も開けていられないほどの真っ白に吹雪く中を、原野の地をうつむきながら歩き、あるいは低く仄暗い雪雲の下のつららのように、長い時を経て大地に滴り落ちたものであった。

 同じ故郷の者同士じゃなければわからない匂いがある。隠していても身から滲み出すものが必ずある。それは例えば札幌の中心街でさえも、長い冬がやっと終わった春先の、まだ舗装もされていなかった砂利道に、濛々と砂ぼこりが立ち込めていたその昔、風雪に荒びる生の自然に向き合う、その覚悟にも通じる開拓民子孫の心象であろうか。それは吹雪や砂埃の中に身をすくめて、あばら屋の内側でじっと耐えている私たち祖先の、もうすでに忘れられてしまった姿でもあったのだ。

 その記憶はどこに居ようと、死ぬまでそこから根を張って生きるしかないような心の居場所であり、おそらく私自身は一生取り払うことのできない、しかも懐かしさを感じさせるものであった。そうした原風景は同じく彼や私の性格を形作ったものであるはずだ。

 こんな言葉が思いつく。楽天に包まれた率直性。自分に向けられた他人の攻撃や批判にはだれでもが自分の心に率直になれる。しかし、そうではない多くの日常性に対して、自分の基準を全面に押し出してフランクになれることはとても勇気のいる、しかも難しいことであろう。

 人生に対するいつも前向きな姿勢、自分の中からの促しに従って躊躇なく行動する衝動、たとえ他人から身勝手と言われようが、はちゃめちゃな奴と指をさされようが、そんなことには一向にお構いなしに、自分の心のままに行動する、私の目にHは、そんな驚嘆する人物に見えていた。それは北海道の方言では、「はんかくさいでないの」がよく当てはまった。

 これは上京してこちらの風俗習慣、人とのややこしい日本人の付き合い方に慣れてしまった私には勇気のいることであった。そうだよな、本来、人とはそうあるべきなんだよなと、彼の行動を見ながら、忘れていた大事なものを再び思い出すように思えたのだ。

 そしてそのたびに、不甲斐のなさと本来の消極性、常に人の目をうかがう私の精神の構えのようなものを、強く彼から批難されているような気持ちにもなった。あるいは、一歩下がったところでいつもあらゆる対象を斜めに見る私の偽善を指摘されているようにも思えた。

 私の浅くて気安い他人への慮りが、実は自己の消極性の隠れ蓑になっている可能性を突きつけられたような気もした。深い促しのない他人への慮りなど、実は世間のマニュアルに従った自己満足にすぎないだろうと思えた。事実、そこでは事は動かず自らが思い込んだ同一点を中心に動いているだけなのである。事の動きだすような積極性は神も好む、しかし、その善悪はあくまで人間が決めることでもあるというではないか。

 いや、もしかしたら私の目の届かないところで、彼は何事も計算づくめだったのかもしれないと思うこともあった。なぜなら、この世界に入る前は、彼は辣腕の営業マンだったのだ。そこで役に立たないと見るや、他人をさっぱりと見限る力は、あるいは見限られたとしてもきっぱりと前進する覚悟は、あの厳しい環境で生きていかなければならなかった開拓民には、必須のアイテムだったに違いないと思うことがあった。逆に、それだけ自力の促しが強いとも言える。そして私にもそうした同じ血が、たしかに流れているのを彼を見て感じていた。

(2)
 
 最初から、Wは複雑な人間に私の目には映っていた。如才ないという言葉がよく似合う都会人で、陽気でしかも愛想がとてもよかった。彼が人の輪に入ると、矢継ぎ早に話題を提供して周囲をほっとかない。だが、私の彼の最初の印象はだいぶ違っていた。あれこれと他人への気遣いと施しは欠かさないが、ひょっとしたら、彼は自分の都合で簡単に相手を裏切る人物じゃないかと。その湧き上がるイメージを私の脳裏から消すのに随分と時間がかかった。いや、真実は今もってわからない。

 基地内ですれ違う米軍兵士に、まるで昔の皇軍の敗残兵のように立ち止まって彼らに深々と礼をしたかとおもうと、次の四つ辻では、正当にもアメちゃんには今も昔も日本はかなわないよと、私におどけて見せる。その変わり身の早さは、敗戦から亡霊のように生き抜いている人たちの、日本人の象徴にも見えた。しかし長い間、彼は工学部出身の真空ポンプのエリートエンジニアでもあったのだ。

 もしかしたら、これは気に入った相手に対してだけ見せた好意としてのおどけだったのかもしれない。私が怪我で長く職場を休んだとき、職場でただ一人、励ましの電話を私の自宅にかけてきたのは彼だった。しかもそれは一回だけじゃなかった。彼の中に、実は人嫌いをそれまで直感していた私には驚きのことだった。そんな時、彼の奥に潜む本来の嫌人の本性が、なにか突然の乱流で乱れていたのかもしれない。

 気さくに他人に接近し、誰彼となく語りかける彼には目に見えない霧がかかっているようだった。自分のなかではとっくに解答がわかっている質問を、無闇に他人に投げかける社交性と、そんな話題に興味がなくなった時の、下手をすると反発を食いそうな切り換えの早さは、それでもどこか一貫性があるように思えた。

 彼の居ない職場は火の消えたように寂しかった。私を見る目はなぜか優しかった。それにもかかわらずこの人物は容易に他人を信じないであろうと、そんな漠然とした雰囲気を漂わせていた。そしていつも何か遠くの危険なわだちを反射的に避けるような、その彼の足踏みの焦点が定まらない印象が、最後まで私から抜けなかった。

 齢64才独身、大方、異様にテンションが高い。私の予想に反して、厳しいボイラメンテの仕事に入ってからもそれは一向に変わらなかった。私も含めて、普通の人間は仕事に疲れてふさぎがちになり、あるいは不満の虫にとりつかれるものだ。しかし、彼は内心の苦しさを他人に容易に見せるようなことはしなかった。

 彼にとって他人とは何であったのだろうか? 最初の頃、この広い基地の草生える敷地の中で、地図を片手に自転車にまたがり、十字路で呆然とたたずむ彼の姿を目撃したことがあった。この基地に来て何年もいるはずなのに・・。その時、いつもとは違って、彼の姿が私には恐ろしく孤独に見えた。周りの景色とはくっきりと断絶され、その剥き出しにされた、異様で暗い案山子のような彼のシルエットこそ、この人物の本来の姿なのかもしれないとその時思った。ある意味で彼は、近代的な病んだ精神の現われだと、その当時の私の思うところでもあった。

(3)

 萌葱色は芽吹いたばかりの葱の色という。例えば露草や鉢植えの、足もと近くで見え隠れするのが目の位置としてはよほど落ち着くものだが、それが空高く梢の上に、しかも見慣れた薄紅ではなく萌葱色の桜の花びらが、折りからの花散らしの風に揺すられて惜しげもなく散り急いでいるとしたら、私たちの目にはいかように映るのだろうか?

 やはり私にはその一角はシュールな光景であった。米軍基地の広い敷地のひっそりとした一隅に、銀杏や柿の木と並んで、萌葱色に花咲く何本かの桜の古木があって、毎年その季節になると、私は視覚と記憶の混乱を起こしながらも、その眺めに魅せられていた。馬鹿げた比喩だが、それは青空を旋回し、しばし木々の間で羽やすめをしている鶯の一群にも見えた。しかし、むろん私の錯視などではなかった。御衣黄桜という名の桜であった。それにしても桜の花を薄紅色と誰が決めたのだろうか?そんな者などこの世にいるはずがないではないか。

 満開の桜がその極みに自らが堪えられず、風に吹かれてはらはらと散り崩れて行くよりも、バラの花のように、姿、形がくっきりと、いつも乱れることもなく、迷いもせず、つねづねの常住坐臥の秩序の中で、自己完結をしている姿が大好きなのだろうYは、私には典型的な理系の技術屋に見えていた。輪郭のぼやけた物はどんなものであれ、彼のマトリックスな網膜が受けつけなかったに違いなかった。説明のできないものは不安であり、不安定なものは彼を苛つかせるだけであった。彼の美しさの範疇に、不安定さはもちろんないのであろうと思われた。

 散り急ぎ咲く花の妖しい生気にざわつきながら、万感のあわれに感じ入るのが、私のような何ごとも崩れゆくものに惹きつけられてしまう凡人のこだわりなのである。人は私を含めてなにごとにせよ、そこが崩れ行くのが自然な姿ではないのか。ピタゴラスの定理の美しさは、残念ながら浅学な私を魅力しない。一方では秋野辺の冷たい風にそよぐ、寂しげな名も知らない雑草の姿にはときに深く感動する。そして、この不確かな感動はいったいどこから来て、私の何にわだかまるのか、そこはどうにも説明ができないものなのだ。

 Yは機械操作の手順や運転スケジュールをびっしりとペンで書きこんだ、色褪せた黒い手帳を欠かさず持ち歩いていた。それは作業服の膨らんだ胸ポケットに行儀よく収まって、いつもちょこんと小さな顔を出していた。顔を出しながら、実は彼を背後で操る律儀という気味の悪い甲虫が、その膨らみの中に隠れてもぞもぞと蠢動しているような気がしてしょうがなかった。

 それにしても、この手帳の余白に彼の想像力の飛躍がはたして詰まっていたかどうかは怪しいものだった。彼の操作マニュアルの単なる記述手帳に、その中からひらめきの生まれる余地は少なかっただろうと思われる。ひらめきは危機的状況においてこそその真価を発揮し、存在理由が生まれる。

 もちろんそんな状況はめったにあるものじゃないから、彼の手帳からひらめきの断片が生まれる必要はなかったともいえる。客観データの記述から隠れた法則を発見し、故障や不具合の予兆を発見するには高度な想像力がなければならないのだ。はたから見れば堅物に思える彼だったが、現状維持の技術屋としてはこれでいい。心のガードはバラの棘のように鋭く硬くとも、責任感はあったのかもしれない。

 私は前に貴方に何と言いましたか?たしか何々と言いましたよね。さりげない詰問には自信が溢れていた。そして相手の反論は大概許さなかった。彼はこちらがミスをした時もあくまで紳士の対応だったが、それだけにバラの棘のように、言葉がぐさっとこちらの胸を突き刺した。私は彼と話をしていると、外堀を埋めて静かに攻めて来る外敵のような、彼の筋書きをなぞる詰将棋の駒の一つにでもされたような嫌な気持ちに度々なった。

 そして彼は語りながら論理の流れを人に邪魔されるのを毛嫌いした。一度自分が喋り始めると、それがひと通り完結するまで、他人の言葉が差し挟まることをけして許さなかった。思考のシーケンスに外乱を許さないごときである。途中、相手の感想や疑問が生じることは眼中にはなかった。彼にとって他人は呪われた存在ではなく、出力誤差をなくすフィードバック制御の一要素のごときものでしかなかった。

 自分で話の終わりと決めているところまでは、会話の相手はじっと我慢を強いらされたに違いない。思わず同時にじゃべり続けながらも、その引き下がることを知らない彼の独り語りの壁に、何度私ははね返されたことだろう。この頑なに、相手に堰を閉ざしたような彼の心の余裕のなさを、私はいつも不思議な気持ちで眺めたものだった。

(4)

 彼の運転する幅広のタイヤは地面に吸いつくようだった。その車体の姿はまるで頭を上げることを禁じられて、匍匐前進を強いられている兵士のようでもあった。アメリカ兵であるMPたちの乗るジープにはそんなことはなかった。なぜならここは自由自在の彼らの庭であったからだ。そして私たちは今だに続く占領下の民族の現実を思い知らされていた。

 補給廠には最前線の武装車両はなかったが、時には修理中の装甲車や大型トラックが走っていることもあった。ここは日本の大地なのに、灯火管制を強いられているその上空からは、目に見えない大国の利害が、この相模原市の一画だけを重く押し潰しているようだった。平たんな基地を取り囲みその外に広がるこの街は、すり鉢の底から眺めたような、ビルの連なる壁の向こうの別世界としか見えなかった。

 毎朝、ボイラープラントの裏にある駐車場に、一台の灰色のフェアレディZが音もなく入ってきて駐車した。エンジン音が途絶えると、サイドドアが勢いよく開いて、短髪に、浅黒く精悍な顔をした運転手が降りてきた。手入れの行き届いたその口髭がよく似合った。そして眼光鋭くボイラーの煙突から立ち昇る白煙をしばらく眺めた。

 本人は、聞くところによると、劇画のゴルゴ13の真似をしているらしかった。確かに無表情な、あの冷酷非情で機械のようなスナイパーにどこか似ていた。あるいは戦国時代に出てくる侍軍師のようでもあった。もし日焼けしたその顔にサングラスでもかければ、誰も彼に近寄らなかったであろう。そうして威厳のある男らしさの演出は十分に成功していた。

 「親切というお節介、そっと見守るやさしさ」このどこからかつまみ食いしてきたに違いない彼の口癖は、おそらくイタリアのスーツのように、彼にはよく似合っていた。そう、彼が私たちの米軍基地の日本人ボスだった。

 しかし、私は彼に微笑みながらも、そんな姿には騙されたことはなかった。彼のピアニストのような細長い指、後ろから見た女形のような柳腰、昼休みに中庭で、膝を抱えるようにして煙草を吸うその孤独の姿、なによりも彼の繊細な優しさは、ときとして女性のように柔らかいものだった。いや女性以上にそれは壊れやすい性質だったのかもしれない。

 この人物から受けるそんな両極端の印象に、最初、私はいたく混乱した、どちらがほんとうの彼なのかと。ときどき他人を組み伏せる抑えがたい欲求をはっきりと感じたかと思えば、その他人に、自分の言動がどう影響しているのか、つねに監視と怖れを抱いているような、そんなアンビバレントな印象をこの人物からいつも受けたのである。

 もしかしたら彼は弟のような私が好きだったのかもしれない。そんなことを口に出すような人間ではもちろんなかったが、人手もなくこの職場を辞められては困るときに、次の責任者にと期待されていた私が、勇気を出して転職の事情を話しに彼のところに行くと、最後まで黙って私の話をじっと聞いていたが、「それはお前の為によいことだ、私も賛成である」とぽつりと答えてくれた。私はその仕事の帰り道、彼の言葉を思いだしては、不覚にも涙が止まらなかった。

 おそらく絶対的な内面の優しさとは、実は他者からは切り離された、その他者に超越して、その人間の自立したものから熟柿のように溢れ出る何ものかであり、それは一見、外部からは、他人に対しての無関心さに見えるような気がする。だが未だに、私はこの謎の多い人物を思いだすことがある。今も興味が尽きないことに変わりはない。

(5)

 私が働いていたのは、相模原米軍基地のデポと呼ばれる熱源供給施設であった。何故か船をかたどった某造船メーカーのボイラーが8基、それが広い敷地の中に点在していた。それぞれのボイラーのバーナーがある前面壁には、耐火ガラスの小さな覗き窓がちょこんとはまっていた。時折、炉筒内の炎の様子を、その小窓から覗くのである。じっと覗きながらも、太古の昔、洞穴内で身じろぎもせず肩を寄せ合って焚き火の炎を見つめる古代人たちを、私はいつも身近に感じていた。

 基地は鼓動を止め、負荷変動の安定した深夜のボイラー室には、バーナーの淡い光が小窓から漏れて、壁の上で皺寄った古いスケジュール表や、米軍の灯火管制で閉められたブラインドの冷ややかな横縞を優しく愛撫していた。バーナーの炎は蝋燭のように、燃焼空気の程あいが悪く、不機嫌な暗赤色があるかと思えば、また順調に燃焼して、健康的で輝くような黄桃色のときもあった。その時々の炎の濃淡は微妙に変化した。覗き窓から見る万華鏡のように炎は様々な表情に変わった。

 どちらにしてもバーナーの炎は炉の背に向かって勢いよく飛んでいった。バーナー先端のカップ状のお椀が高速回転をすると、そこから攪拌されて霧状の油が飛び出し、外部より押し込まれた空気とうまく混合して、円錐状に広がりながら火炎が噴き出す仕組みだった。その火炎は数メートルの勢いある火柱になっていただろうか。ファンの騒音にかき消されたように、ガラスに映る激しい炎は寡黙だったが、それでも覗き窓の奥はさぞかし灼熱の地獄かと思われた。

 この燃焼室は炉筒と呼ばれた。大きな鉄製の円管でできており、その外側をぐるりと水がおおっていた。点火してしばらくするとその水が対流して沸騰し始める。もっとも通常は水が何トンも入っているからなかなか沸かない。それでも蒸気が発生するにしたがって徐々に缶の圧力は上がっていった。炉筒煙管ボイラーなら、普通、圧力1MPaあたりまで上昇する。昔でいえは10キロの圧力だ。ちなみに調べてみると、1Mpaの破裂による爆風であれば、強固な家屋や鉄筋コンクリートの構造物でも完全に損壊すると、何かの資料に載っていた。

 ボイラーメンテ作業は数日をかけて冷ましたその炉筒に、上部の潜水艦のハッチのような狭い穴から潜り込み、すすで焼けただれた炉壁や、反対側の水側壁面に石灰のように固まったスラッジを削りとった。冷ましているとはいえ釜の中はまだまだ熱が残っていた。時折、その熱気に澱んだ空気にむせ返った。狭い炉内の空間を腹ばいになりながら前後にやっと移動した。外から取りこんだ作業ランプは赤茶けた内部を暗く照らしていたのだが、しばらくするとこの狭い鉄の釜に閉じこめられた恐怖で、息ができなくなるような気がしてくるのだった。

 奥まった暗がりから、先に入って作業中のKの独り言が、顔は見えないが谷間に消えるこだまのように炉内に反響していた。「なんの因果で、こんな、仕事をやるはめに・・、何の因果で、こんな、仕事をやるはめに・・」 冗談とも本気ともわからないその歌うような喘ぎを聞きながら、私はしばらく手をやすめて、30センチ上のアーチ状にせまる鋼板に浮き出た鉄錆のまだら模様を見つめているしかなかった。そして、私の因果もついにここまでかと、思いたくなった。

 大柄のKはいたずらっぽい目をしてよく私をからかった。大手鉄鋼会社を定年退職して、数年前にこの職場にやってきた。いつも骨太の体形からユーモアが抑えきれず滲み出ているような人物だった。冗談好きで、若い頃はさぞかしその体力が余っていただろうと想像する。60代半ばにもなって、まるで丸太を叩き割るような力仕事を、若い私と一緒にやれたのだ。

 誰も知らないこの職場に初めてやってきた時、ミーティングが終わるやいなや、遠目で私を眺めていた彼が駆け寄り、軍手の束を無造作に差し出した。そして気楽にやろうなと、私の耳元でそっと囁いた。緊張で固まっていた私は彼の一言に救われた。嬉しかった。会社という荒波を進むその同じ小舟に乗ったのだから、できる限り一緒に助け合い、自分達の仕事は会社の思惑とは別に、いつになるかは分からないが会社勤めの終わりの来る日まで、お互い楽しくやっていこうじゃないかとその目が語っていた。それは長年、工場労働者として染み込んだ私の体臭のようなもので、すぐに彼の中に同じものを発見した。

 もしこの励まし合いがなかったならば、単調な工場労働者の誰にとっても、定年までの長い月日は無味乾燥で辛いものになったであろうと思われた。自助を前提とした、しかしもたれ合いではない助け合い。そんな過去に渡り歩いた自動車工場での経験を思い出したのである。それは孤立独行の職人たちの場合の横の繋がりとはまたひと味違う世界なのだ。その意味で、私はおそらくKの気持ちを理解することができた。そして信頼できる仲間の一人となった。

(6)

 Eは職場の最古参である。古狸と言ってもいい。齢七十才、浅黒く精悍な表情は、まるで日に焼けた炭焼き小屋の親爺のようだった。その年に退職予定だったが、本人には納得がいかないようだった。ぶつぶつと首になることの不満を、私たちに言い続けていた。

 未だ壮年のように、いつも作業着代わりに着るTシャツの下は筋肉が隆々としていた。その衰えない背筋と胸筋が、四十年もの間、彼の生活を支えてきかたと思うと、ますます立派なものに見えてきた。それは飾りものなどではないのだ。噂ではその歳で腕立て伏せを100回、毎日の鍛錬を欠かさなかったらしい。

 ボイラーのメンテ作業では、太い配管同士をフランジという継手で接合したり、重いポンプや抱えるほどの開閉バルブを持ち上げる。そしてボルトやナットを金属に締め付けるのにはずいぶんと力がいる。見ていると、彼はそんな事をいとも簡単に一人でやってのけた。トルクレンチやスパナをもつ二の腕は太くて逞しかった。若者がフィットネスクラブで無理やりつけた飾りものとはわけが違った。世の中には同じ世代の、すでに杖をついて歩いている者もいるというのに、それは驚くべきことだった。

 責任者としての役目は降りたが、彼がこの職場の生き字引であることには変わりがなかった。ベトナム戦争で殺気立ったこの米軍基地の歴史とともに彼は生きてきた。石炭炊きのボイラーから油だきの現在まで、彼の蓄積された経験はこの職場でも別格であった。米軍さえもその彼に一目置いていた。

 仕事では小さなことにこだわらなかった。質のよい蒸気を、それは湿り気のない過熱蒸気を、よく整備された彼の子供たちのようなボイラーで現場に送汽する、これができればあとのことはどうでもいいようにさえ見えた。何より私のどんな疑問にも嫌な顔一つせず、素人の私に易しく、しかも分かりやすく答えてくれた。私にとっては職人がたきの尊敬に値するボイラーマンであった。

 ボイラーに関して他人に隠すものなど彼には何もなかった。技術をもったいぶることなど皆無だった。だから伝えられないものとは、彼の経験の積み重ねと、そこから生身のからだに染み込んでいた、長年に構築された感覚の秩序だけであって、それは言葉の世界を遥かに超えた、以心伝心でしか伝わらないものだった。米軍が当時、ベトナムで何をしていたかは、この島国の国民の大多数と同じく、彼には関心のない遠い世界の出来事だったに違いない。

 一年に一回の、大音響で蒸気が噴出す安全弁の性能検査の時、自分で調整していた吹き出しの圧力設定を確かめるため、彼はボイラーのすぐ傍で腕組みをしたまま微動だにせずにその様子を見守っていた。私たちは離れた出入り口のすぐ傍からその様子を覗いていた。怖かった。建屋の軒下から通気管で吹き出した蒸気の煙幕は激しく動揺し、この三階建のプラントをすっぽりと外から包んだ。彼はそんな中で一人仁王立ちであった。

 ただ何ごとも玉には疵(きず)がある。退職が近づくにつれ、私の尊敬を裏切るようなことが多くなった。私は哀しい目で彼を見るようになっていった。しょうがないことではあったが、自分の過去を語るその隠しようもない自愛が鼻に突いてきたのだった。それは歳のせいでもあったのだろう。だが私の彼に対する尊敬は大きかったので、そんなものを彼の中には見たくなかった。

 私の勝手で彼を断罪することの愚かしさは充分に分かっていた。しかし、過度の矜持が強い自愛に変わり、せっかくの本物の職人としての私の尊敬と期待を裏切らされたように思った。ボイラー業界も時代とともに斜陽化していくこの御時勢、やり場のなくなっていった己の技量のはけ口を、過去の輝かしい思い出の中へ容赦なく吐き出しているようにも見えた。

 自分という人間はこんなにも苦労してきのだと、何気ない言葉の端々に見え隠れした。彼の話を聞けば聞くほど、私の胸に悲しみが生まれるのを抑えがたくなっていった。それは彼の中で、厄介だった様々な過去の苦々しさを、他人というフィルターを通して、自己肯定の花束に変えようともがいているようにも私には見えた。

 しかし考えてみれば、私の尊敬が大きかっただけに、彼を罪人に仕立ててしまっただけだったのかもしれない。おそらく同じ職場に長くいた弊害もあったのだろう。もし外の違う職場を知らなければ、己の在りようを相対化させることはなかなかむずかしいものだ。この基地のボイラーの歴史にはいつも中心としての彼がいた。基地の歴史はおそらくそのまま彼の歴史だったが、それはあくまで、このぐるりと囲んだ基地の有刺鉄線の内側での特殊な世界の出来事であっただろう。

 しかし外の世界はあまりに広い。彼と同じく実は苦労も厭わず、まじめに黙々と仕事をやってきた労働者はそう珍しいことではないのだ。巷には、小さな満足の下でも、見返りをそれほど望まず自分の仕事に誇りをもった謙虚な人間が、職種に拘わらず驚くほどいるものなのだ。だから彼だけでなく、やはり真の自己肯定に至る道とは、他人の介在や助けを必要とするものではないような気がしてしようがなかった。