anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

病院日記  50

病院日記  50

 寒朝はボイラーとともに始まる。これが私の中に長らく棲みついていた冬の感覚でもあった。そう、ボイラーマンの朝はいつも早い。地下に降りて行く。寝静まった機械室はまるで熱帯魚の水槽のように夜の底に沈んでいる。扉を開けると、誰かが囁くような微かな水音が釜の内から聞こえてくる。私が声に呼ばれているのかと錯覚する。昨日の冷め切らないボイラー水が釜の中を自然対流している音だ。

 制御盤の起動ボタンを押せば、周囲の静寂を破り一気に機械が動き出す。給水ポンプが回り、押込み換気ファンが唸りだす。地を這うような振動が部屋をおおう。圧力計の針が上下に揺れている。重油の匂いと冬の朝の暗い空。その凍てつく空気を和らいでくれる、覗き穴より洩れるバーナーの輝炎。そして、なによりもボイラー頭部のベント弁からの湿り蒸気が、しだいに透明で乾いた蒸気に変化をしていく、それをじっと見つめている私の無心で幸福な時間。

 日常の運転はもうしなくなったが、久しぶりにこうして聴く、配管やバルブを流れていく蒸気の音は、私をふたたび覚醒させるのに充分であった。ざらざらとした紙やすりの上をきらきらと輝く滝水が流れ落ちていくような、あるいは焼き砂がフライパンの内を飛跳ねるような乾いた音を立てて蒸気が激しく流れている。ときどき波濤が崩れて泡立つような音もする。配管の中を蒸気が引っ掻きながら、それも疲れると、まだ管内に残っていたドレンを舌なめずりして流れていくようにも聞こえる。たしかに魔物がいるのだ。

 機械室の縦管を上昇していく蒸気は、ときおりその金属管を左右に震わせる。無理やり細い配管や絞り込んだバルブをを通されて怒っているようだ。蒸気のほとばしりはそのまま私の身体も通り抜けて、怠惰に久しく眠っていた細胞を一列に並び変える。まるで戦闘体制じゃないか。沸々と煮えたぎる釜のエネルギーが、金属板を震わせながら、釜鳴りの朝の遠吠えが、そして蒸気爆発の活火山と同じ咆哮が、今、私の前の薄い金属管の中を駆け上がっているのだ。

 私は祈るような気持ちで全神経をそこに集中させる。統制できない恐怖心がからだの深みから湧き上がる。そして私の小さな経験と賢しらな理解力の中へ、その危険のリストを、致命的で暴力的な自然の力を、無理やり収めようとする。私は特級ボイラー技士ではあるが、熱エネルギーの破壊力を前にしては、そんなものは人間御用達の無力な紙切れにすぎない。