anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

市民運動家

 側から見ると、ご両人は昔からの戦友のように仲が良く、本音の言い合いをしながらも、活動家としてのお互いを深く認め合っていると、私のような外の者でもそう拝見しておりました。それにしてもお二人ともご無事でよかった。裏で何者かの意思的な暴力が働いていたのかどうかそれは分からないが、今後とも細心の注意をしていただきたい。

 田中氏には以前、私が田中氏を買いかぶりすぎていると言われたが、他の活動家のやれない運動を自ら実行していることは疑いのないことで、政治家でもない私たち市民が、社会の為にこれから何をやれるのか、抵抗も含めて、ついこの間まで政治的無関心層の大海に安堵していたような、日本に対しての内からの感情の湧き上がりが少ない私のような者には、先導する一人の貴重な存在である。田中氏が思想的にも懐が深い方であるのは間違いない。どの社会でも弱い者たちが踏みにじられ、一握りの強い集団に好きなようにさせるシステムは、時間がかかろうが、早晩、絶やさなければならないのは当然だろう。

 活動家とは金のないイメージがあったが、斎藤氏はいつも呑み会には皆に金を出してくれる。太っ腹なのだ。活動の他に商売でもしているのだろうか?それにしても政治議論になるとその意見は簡潔で、いつも気持ちの良いほど明確である。その説得力は多々の政治経験からくるものだろうと思われる。

 一度、斎藤氏の言う「革命」とは具体的に何か?と思いきって聞いたことがあった。なぜなら、私の脳内や他者との会話の語彙には「革命」という言葉はないからだ。残念なことに、その時ははっきりした解答はなかった。しかし、彼の中ではそうではないであろう。実はアフガニスタンで「革命」を起こそうと戦争に行った人なのだ。

 呑んだあとの帰り際に、ふと、言い忘れを思い出したようにエレベーターの中の私に語りかけてくれた。運動はマイペースでやらなければ続かないよ、無理しないでね、と。物理的に活動の負担が大きくなり、ちょっと違うよなと心にもやもやが起き始めていた時だった。そんな時、私の顔色をそっと見ていたのだろう。やはり優しい人である。

 しかしながら御両人を間近に見ると、頭の上を銃弾が飛び交うそのこと自体を止めるのではなく、私の関心事は、その狂気や暴力、あるいは不条理の下では人は何を考えうるのか、私自身はそうした唯の観察家にすぎないのではないかと感じる。社会を動かすことに未練はなく、小さな身近な生活の安定を求めて唯々諾々とする賃金労働者であり、しかも小市民的無関心と生存競争の大海に溺れる一人、結局は一生そこから這い出すことのできない人間ではないか、とも思ってしまうのだ。

https://biz-journal.jp/2023/05/post_339625.html?fbclid=IwAR208Mq0xSZTFDb9TCTBL-14qGepa5I6_37ixZkfDcBLXhQPCF5eo3bUwJc#lh4gn7rhaafjim07g1b