anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言 11

 雨にやつれて散る桜の樹を寒々と眺めながら、今日も仕事の帰りに一杯やっている。今年の花の散り脚は早かった。と言っても慎ましやかに安酒屋でビールをやるだけだ。つまみは今日の日替りサービス一品。それは日によって違う。それでコートについた冷たい飛沫をはらって座席に座れば、注文をしなくとも瓶ビールと付き出しが運ばれてくる。店の連中とは取り立て話をするわけでないが、それはそれですばらしい関係だ。なぜ瓶ビールかは今となっては何も覚えていない。それでも私という通りすがりの存在を覚えていてくれる。そうしたことは私がその日に何を飲みたいかの欲求よりもはるかに大事なことなのだ。酒はなんでもいい。こだわりはまったくない。ほんとうはコップ水でさえ酔うことのできる人間になりたかったのだが、あいにくそれだけの熱情と才能はない。

 人生に酔いたい人たちはたくさんいるが、そのことが他人のためになるのならなおさらいい。社会を変革しようと真摯に思う人たちは必ずいる。この無関心という社会の絶望的な海の中のほんの一握りの尊い人たちだ。しかし、自分を掘り下げないで社会、社会という輩に対しては、私はすぐに興味がなくなってしまう。というよりも懐疑的になる。目の前の憤怒するこの社会や他人という前提がもしまったくなくなったとき、貴方の怒りの拳ははたして今のように振り上げ続けることができるのだろうか。おそらくそんなことはあり得ないと言われるだろう。たしかに社会には拳を振り上げ続けなければいけない。

 しかし、私には常に付きまとい振り払うことのできない考えがある。もし闘うその相手がなくなったとき、貴方は何を心の支えとして生きるのか。正義の病はそれぞれに心地よく、それは必要なことで誰かがやらなきゃならないことではあるが、しかし、もっとその人固有の根幹から出ていないものであれば、とるに足らないことではないか。だれにとっても、いつの時代にも共通な基本的な生の構造を知らないで、私たちがこうして偶然囚われているこの社会を、根底から語ることをはたして私たちはできるのであろうか。だから心から思う、私の考える私の根に帰りたいと。