anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

サボテンの花  改

サボテンの花 (改)

薄紅を点したサボテンの花が、昨年に続き新宅のベランダに咲いた。しかも誰も見ていない夏の真夜中に、ほのかに月明かりが漂う小さなベランダで、その秘めやかな花弁をそっと押し開いていたのである。私は驚いた。というのは薄紅の花が何かを私に語っているようで、うす闇の中に浮かぶ清らかな二つの瞳に見えたのである。それはまるで近くにある高尾の森の、黒々とした千年の闇を背後に引き寄せながら、その淡い光で私の心の底まで射るように思えたのだった。

 引越し前の荷造りの時、彼らを段ボールの箱へ入れたまま蓋をすると、忙しさの中、その後水もやらずに荷物の山に紛れてしまった。トラックの荷台の振動に揺すられて新宅に着いてからも、私は水も光も一切やらずに、いつものように語りかけもせず、敢えて沈黙を頑なに通して、こちらに来て一週間ほど、床に積み重なった荷造りの山の中にそのままにほったらかしにしていた。しばらくすると、サボテンの入った段ボールを、目障りなものを遠ざけるように、私の見えないところにわざと置いてしまった。

 引越しはもちろんのこと、生きることのすべてにめんどくさかった。どこかにサボテンなど枯れてしまってもしょうがないと思っていた。いや、それを望んでさえいた。箱の中の彼らの気配は頭の隅に届いてはいたが、そんなことは些細なことだった。もう彼らと手を切ろうとも仕方ないと割り切っていた。

 高尾の森の登山道に、あるいは近所の空き地に人知れず咲く野の花は美しい。しかし、残念ながら私から自立した彼らはどこまで行っても絵葉書のように空々しかった。そして青空が頭上に広がれば広がるほど、その可憐さは私の前で匂い立った。風に吹かれて花弁をかしぐ姿は幻にしか見えなかった。

 私にはいつもそういうところがある。努力して積み重ねた関係性を惜しげもなく断ち切り、あえて不義をつくることによって、衝動に駆られたように分断し、自分の中の自分に対する嘘や偽りを生む、他者との感覚の齟齬を一挙に清算したくなるのだ。だから、気を取り直し、段ボールから幾分青白く干からびたような彼らを取り出したときにはもうしわけなく思った。株分けの子どもたちが親を凌ぐほどの背丈になったのに、こうして段ボール箱に打ち捨てられている姿は哀れだった。サボテンの運命は私の手の内にあり、いつものように、やはり移り気な自分自身を恥じることをまた繰り返したのだった。

 一時にせよ、彼らを見限った私を赦してくれるだろうか。移り住んだこの霧深い山あいの地で、私の用意した安物の小さなかわらけの入れ物に、もはや安住の根を張るしかないのに、それでも柔らかな薄紅の花弁の光りは、ベランダの下で清らかに漂い続けていた。あらためて私の胸は痛んだ。そして、彼らの言わんとするところをけして聞き漏らすまいと、やつれぎみの幾分皺深くなった紡錘形の静謐へ、また耳を尖らせた。

 彼らは私のあからさまな突き放しに怒っていたのか、それともそんなことにはまったく関係なく、その開花によって私の感応に答えてくれたのか。それはただただ彼らの強い生命力の発現にすぎなかったのか。しかし、確実に、あの清らかな花を見ていると、自然というものの中に、すべてのことがのみ込まれていき、しかも肯定されていく力強い律動、ピュシスが備わっているように思えた。

 新しい環境で見事にその生命力を継続したサボテンの花は、自分の意志で開花し散るわけではないだろう。それでも、彼らの姿はあまりにも自然の時宜にかなっているように思われた。彼らの闇の中での発現は、意思のないところの純粋な他力の力でもあった。私は少し安心した。

 そして、それからまるで死に急ぐように、数夜を待たずあっという間に花を散らしてしまった。古株の親サボテンも、そこから私が株分けして成長した子供たちも、ある日、まるで申し合わせたように芽をつけたと思うと、その産毛に包まれた花芽が膨らみ始め、茎を上方に伸ばしながら先端を長く突き出して、とうとう美しい花房を開花させていたのだった。

 めずらしいこともあるものだ。彼らのその千年の夢が一夜にして妖しく結ばれてしまうと、生命発光の役目を終えた花のむくろはすみやかに力を失った。萎んだ花弁はだらしなく鉢植えの黒土にしな垂れて、私の意識からは遠く離れ、みるみるうちに同じ土色になってしまうのだった。

 私にはサボテンがその内部に強い生命力を持っているように感じていた。彼らは静謐の中に身動きもせず佇まい、いつも畏まっているようだった。深夜のベランダの片隅にじっと息を殺して、私の近づくのを待っているようだった。もしもこちらから彼らに意識の矢を射かければ、すぐにも感応してくるように見えた。

 彼らの固い皮膚や針のようなトゲは、外界から身を守るためだろうが、それは彼らの内発自体の強さを内側から逃がさないために、あるいは、悪条件のもとでもその生命力をいわば外に揮発させず、濃密を保つための装置のようにも思えた。

 確かに彼らにはあきらかな意思は見えない。しかし、こちらがそこに何かの気配を感じとればすぐさま反響し、そこには意思が生まれ、感応が成り立ち、私たちと確かな関係性がこの平坦な現実にも立ち上がるものと思われるのだ。閉じ込められた自発の何ものかが、濃密差の程度はあるにしても、互いの発する孤立波がもつれ合い干渉し合うように、こちらとの合流波を形成して質的な空間を創り上げていく。

 相手の意思の存在はいつでも陽炎のようであり、私以外の意識を確証することは原理的にできない。この不確かな相手の意思はまさに肌で実感するしかないのだ。我々はなんと希薄な原理の上にその立ち位置があるのだろうか、とも思う。そうしてその相手の意識の発現はこちら側の解釈に大きく影響されるのだ。敢えて言うならば、我々は唯の石塊にもそこに意思を仮定することは可能であり、例えば、チューリングテストにかけられたA Iに意思があるのかどうか、そこの線引きは今でも明確ではないであろう。

 人が飢餓の状態にあるとき、本来、人に備わっている感覚器官の鋭さはいや増すという。視覚はその輪郭や色彩を増し、聴覚はより遠くのものを聞き分けることができる。鈍感した味覚は味わったことのない刺激に覚醒する。悪条件のもとで、かえってそれぞれの器官の目的が単純化されることにより、本来の役割が蘇ったともいえる。はたしてサボテンの器官は何が単純化されたものであろうか?私には彼らとの交感の秘密は、そこを知ることにあるように思われた。