anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言 31

酔言 31

 日々、千床近くある都立病院の設備管理の副所長として、あるいは職業訓練校の講師として、仕事においては激しく世間と触れ合うことになっているが、それは私の本意ではない。いやいや、私にたまたまこの時点で与えられていることに、私なりに真摯に反応しているにすぎないのかもしれない。小さな頭で、どう考え続けても目的などそもそもない人間は、その場限りの生き方か、逆に言えばそうせざるおえないのだ。

 私は一方では、世間と付き合う術を生まれながらに肉体に装備しているようだから、健康でありさえすれば生活にはけして困らない。そのおかげで、今でも仕事がどこからともなく湧き出てくる。たとえそれがたいした収入のある仕事ではなくともだ。心もからだも他人を傷つけることなく、しかも永遠の今の遠ざかるこの仮の世で、静かに生きていければそれでいい。

 その静かに生きる秘訣はただ一つに思う。どんなに辛くとも悲観や自己否定をしないことだ。なぜなら人生は私が真剣に自己否定を繰り返しているほどに、他人は片端れにいてさらさら甘くもなく、無関心であり、またそれぞれの私たちの生きる時間もそうそう長くはない。そして他人との比較に陥り他者に依存してしまう感覚は、この自己否定感と比例関係がある。

 もし、仮に自己否定する理由が真実であったとしても、その絶え間なく内より湧きいでる耐えがたいエネルギーは、それこそ己れの創造に益しないのであれば他人のために使った方がいい。ひょっとしたら、すべてに否定的な傾向を持った人間にとっての、私たちの日々の仕事ということの隠れた意味や価値もそこにあるのかもしれない。

 嫌いなことをどれだけやれるか、意味を見出せないことにどれだけ身を傾けられるか、単調な繰り返しをいかに創造の秘密にするか。この不毛とも見える工夫に身を潜ませば、何処からともなく豊穣の風もやってきそうなのだ。だからそうした日常の皮膚感覚に、私は耳を傾けて生きてこようとしてきたにすぎない。

 考えてみれば、好きなことはだれでもやれる。しかも、それは個人唯一のものを生み出すためのただ一つの最善の方法だろう、と思っている。しかし、真逆の方法があってもまた楽しいことではないか。楽しいことや好きなことだけをやれと、何処のだれが決めたのか。それはいかにも世間受けする月並みな武勇談であり、我が身に単独行への強い覚悟がなければ、現実には自他ともに大きな犠牲を撒き散らすだけだろう、と私は思う。

 嫌なこと、それが次第にできるようになったのはただの慣れかもしれないが、私の中の相矛盾する価値観に、おそらく私自身が寛容なところがあるからだ。何事にも確信が持てず、また潔癖性ではないのである。だからこの現実を受け入れるためには、矛盾するそのこと自体が私の根っこであると認めることにあった。

 私は寺院の土壁の連なる日向に、日がな佇む姿勢に高い価値を認める。憧れの達磨禅師のように壁を見続けても、あるいは巷で激しく世間と触れ合っても、同じものを違うように見えているだけで、その先の大切なことは実は何も変わらない。どちらも削ぎ落とされたあとの単調さや繰り返しの中にこそ、深い思想が芽生えるのだ。

 すべては幻想の中、現実などは関係ないという強い思いに駆られて、それでも、そのあるかないかの存在の一点に向けての虚しく真摯な密度さ、それだけが真に大切なことなのだ。私自身が一途に虚無に向かって進み、生き身そのままの陰圧の化身ともなれば、待つこともなく望まなくとも、私の思考と肉体の隙間から、外の風がいくらでもこちらに吹いてくるはずだ。

 恥じることは、思考の緻密な概念操作ができないことではなく、理想の世界を思い描く能力がないことはいざ知らず、この日常生活より繋がる世界をいったんリセットして、まったくの異ざまに見ようとする真の意欲と勇気が、私からなくなることであろうか、これを堕落という。それにしても、世界を幻であると積極的に肯定する理由は、私の知覚自体からはなかなか見出せないが、しかし、世界が幻ではないときっぱりと否定する理由もまた見つからないのである。