anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言 28

酔言 28

 人間関係とはたしかに難しい。しかし、他人と比べて私自身はそれほど人間関係に悩んだことがないと断言できる。おそらくそれは私が他人を羨んだり、攻撃することに縁のない人間であったせいなのか、他人に何かを求めることに非常にナイーブなのか、あるいは私に発現するあらゆることを他人ではなく私自身の反映として心に収める性情のせいか、いや結局、そもそも私自身が他人の感情に鈍感なせいなのか、もしかしたら自己完結的な世界を目指すことにうつつを抜かして、他人が侵入してくる私の中の領域をあえて少しずつ狭めてきたせいなのか、どちらにせよ、多くの他人と触れ合うほど、その他者に影響されたり、振り回されたりすることは少なくなったと思われる。

 なぜなら、今ではそんなことはいかに深刻な状況になろうとも、ただ、思い方の間違い、結局はこちらの意思の問題にすぎないと思うに至っている。その意思の問題とはあくまでこちらがコントロールできる、その意味でである。へりくだるか突っ張るか、受け入れるか断じるか、それは分からないが、しかし、人生の中で人との関係性こそが、その生きるも死ぬも、喜びも苦しさも、生活上の大きなウェイトを占めている事実を認めると、はたしてそう上手く行くのであろうか、そう断言できるだけ私は意思が強いのか、そんな気持ちもある。

 錯綜したように見える自分の身の振り方など、よほどの明確なイメージと目的、あるいは自信がないかぎり、そのときの流れやアドバイス、他人の促しを受け入れた方が、事はうまく運ぶ場合が多いのではないだろうか? なぜなら、人をあることに誘ない勧めるとき、誘なう方の頭の中には、この人ならそれがやれそうだ、なんとか行けそうだ、そうしたイメージがなければ声を掛けるわけがないのである。この過程は受けとる側の本人には見えないことである。そして、そのことは本人でも他人でも、イメージの宿る場所が違うだけで、大きな流れの中の事柄の動いて行く発動の種としては同じなのである。

 そうした第三者は、身内でも知人でも、同僚でも、初めて会った赤の他人でもいいことがある。重要なことはある可能性のイメージが、だれかの頭の中に形となって像を結ぶということである。それは理由のあることでもあり、理由がわからないこともあろう。しかし、陽のもとに置いたレンズが自然に光を集めて熱を生むように、その集光するレンズはどんな人のどんなものでもいい。形を宿すイメージの場所は本人でも他人でもいい。ただ、現時点で脈絡のないように見える他人のイメージをこちら側が受け入れるかどうかは、その人の柔軟性と素質に影響されるだろう。

 多くの感情、とくに負の感情は、もとをただせば、自己防衛本能から進化してきたものと言われているが、それが度を越すと、肉体が軋みその圧力に耐えられなくなるということだろう。もともと、肉体自体が負の感情とは相性が悪いのである。それはだれでも生きていれば本能で知っていることである。ただ、具体的にどの感情がどの臓器に一番影響を与えるのか、そこのところが分かりにくい。いわゆる臓器の感受性の度合い、おそらく、怒り、悲しみ、怖れ、憂い、心配・・と、それぞれの負の感情を受け入れる場所、影響されて共振する臓器が違うことはあまり知られていない。