anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言  19

酔言 19

薄紅を点したサボテンの花が昨年に続き咲いた。しかも誰も見ていない真夏の夜中に、そのベランダの月明かりの下で、そっと花をほころばしていたのである。前の家で引越しの荷造りの時、段ボールに入れたままに、トラックの振動にさらされて、着いてからも水も光も一切やらずに、私は語りかけもせず沈黙を通して、こちらに来ても一週間ほど荷造りの山の中にほったらかしにしていた。しばらくすると、サボテンの入った段ボールを見えないところに置いた。

 すべてにめんどくさかった。どこかにサボテンなど枯れてもしょうがないと思っていた。もう彼らと手を切ろうとも仕方ないことと頭をよぎった。私にはいつもそういうところがある。努力して積み重ねた関係性を断ち切り、あえて不義をつくることによって自分の中から自分に対する嘘を清算したくなるのだ。だから、気を取り直し、段ボールから幾分青白く干からびたような彼らを取り出したときにはもうしわけなく思い、いつものようにやはり自分に恥じた。

 一時にせよ、彼らを見限った私を赦してくれるだろうか。移り住んだこの霧深い山あいの地で、私の用意した小さな安物のかわらけに安住の根を張り、それでも柔らかな薄紅の光りはベランダに清らかに漂い、あらためて私の胸を躍らせた。そして、彼らの言わんとするところをけして聞き漏らすまいと、やつれた紡錘形の静謐へまた耳を尖らせた。

 彼らは私の突き放しに怒っていたのか、それともそんなことには関係なく、開花によって私の感応に答えてくれたのか。ただただ彼らの強い生命力の発現だったのか。しかし、確実に、あの清らかな花を見ていると、自然というものの中に、すべてがのみ込まれ肯定されていく力強い律動、ピュシスが備わっているように思えた。新しい環境で見事にその生命力を継続したサボテンの花は、自分の意志で開花し散るわけではないだろうが、それでも、彼らの姿はあまりにも自然の時宜にかなっているように思われる。私は少し安心した。

 そして、まるで死に急ぐように、数夜を待たずあっという間に散ってしまった。古株の親サボテンも、そこから株分けして成長した子供たちも、ある日、まるで示し合わせた以心伝心の共同作業のように芽をつけたと思うと、産毛に包まれた花芽が膨らみ始め、茎を伸ばしながら長く突き出した先端でとうとう美しい花房を開花させた。しかし、彼らのその千年の夢が一夜にして妖しく結ばれてしまうと、萎んだ花弁はだらしなく鉢植えの黒土にしな垂れて、みるみるうちに同じ土色になってしまった。

 私にはサボテンがその内部に強い生命力を持っているように感じる。彼らは静謐の中に身動きもせず佇まい、いつも畏まっているようだが、もしこちらからなにげなく意識の矢を射かければ、すぐにもその初動を現して感応してくるように見える。彼らの固い皮膚や針のようなトゲは、外界から身を守るためだろうが、彼らの内発自体の強さを内側から逃がさないために、あるいは悪条件のもとでもその生命力をいわば揮発させず、濃密を保つための装置のようにも思える。

 彼らにはあきらかな意思は見えない。しかし、こちらがそこに何かの気配を感じればすぐさま反響し、そこには意思が生まれ、感応が成り立ち、私たちと確かな関係性がこの平坦な現実にも立ち上がると思われるのだ。相手の意思の存在は、その発現は、はたしてこちら側の解釈に大きく影響される。チューリングテストにかけられたA Iに意思があるのかどうか、そこの線引きは明確ではないであろう。

 例えば、人が飢餓の状態にあるとき、本来、人に備わっている感覚器官の鋭さはいや増すという。視覚はその輪郭や色彩を増し、聴覚はより遠くのものを聞きとることができる。鈍感した味覚は味わったことのない刺激に覚醒する。悪条件のもとで、かえってそれぞれの器官の目的が単純化されることにより、本来の役割が蘇ったともいえる。サボテンの器官は何が単純化されたものであろうか?彼らとの交感の秘密はそこにあるように思われる。

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