anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

松沢日記 32

松沢日記 32

 蒸気ヘッダーのバルブから朦々と蒸気が上がっていた。回転するシャフトの回りにはグランドパッキンがきつく詰められていて、その詰め物が劣化すると内部の蒸気をシールできなくなるのである。取り替え時期はとっくに過ぎて、そこから4、5年は経っている代物だ。私を含めて担当者は見ぬふりをしてきたが、何事もそうはいかなくなる時が必ず来る。

 しかも自分でやれる技術の制約もある。思い切ってやったはいいが、失敗したときに予期しない大きな損失が生まれることさえある。まして、修理するには新しい部品を揃えなければならないことがあり、コスト問題も起こる。管理側はそうしたことに敏感だが、我々下っ端の設備員には、目の前の故障を修理することが本願であり、そこまでは考えが至らない。とりあえず手に入る部品や手段を総動員して取り組むことになる。それがコストがかかってもだ。設備員は報告書類を作ることではなく、コスト計算することでもなく、ただただ、不具合の設備を修理して、正常な機械の運転を目指すことにある。また、機械との付き合いに、浅い人間関係などどうでもいいのである。幸い、機械はけして嘘をつかないものだ。

 それでも、たくさんの人間に会い、その都度、妥協したり反発したりと、また右顧左眄しながら、あっという間にひと月が経ってしまった。書くことよりも、一介の労働者としての現実が忙しい。天下国家を心配するだけの力のない私のような者には、こうして身の丈にあった身近な労働に精を出すのが合っているのかもしれない。政治に一見無関心に見える声なき者たちにも、そうした考えの人たちが多いのではないだろうか。

 それぞれの生活の基盤を語らずして、あるいは考察なくして、どうして政治や国家を語ることができるのだろうか。たくさんの時間を費やす身近な労働を語らずして、どうしてこの世界と繋がり、また変えていけるのか。国家や政治がなくなってもおそらく私たちは生きていけるが、それぞれの生活の基盤がなくなれば生きていけないのである。今の私は、政治=私ではないが、労働=私なのである。労働の実感なくして、なにがプロレタリアートか。指導者論や組織論もいいが、それは私には企業の利益追求のための方便と同じように聞こえてくる。それぞれのジャーゴンを頻発して、そのどこに大衆や衆生があるのか。たとえ有名人であっても、他人の言葉や思想を語るだけの人物に、私にとってなんの価値があるのか。

 週一ほどの訓練校の授業は、さすがに講義内容の予習をしていかなければならないが、職場の仕事にはそんなことはないのが助かる。しかし、現場に入れば即、臨戦態勢になる。そういう時は、考えるよりも身体が先に動いていく。肉体が思考に先行するものにこそ、その単一な反復運動の中にこそ、私が何か実体と感じるものが生まれてくる。そこにはよくも悪くも繰り返されることで凝結されて、知らずのうちに形に現れてくるものがある。f:id:anehako:20230208071957j:image
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