anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

米軍基地、人物譚 (3)

萌葱色とは芽吹いたばかりの葱の色という。例えば露草や鉢植えの、足もと近くで見え隠れするのが目の位置にはよほど落ち着くものだが、それが空高く梢の上に、しかも見慣れた薄紅ではなく萌葱色の桜の花びらが、折りからの花散らしの風に揺すられて惜しげもなく散り急いでいるとしたら、私たちの目にはいかように映るのだろうか?

 やはり私にはその一角はシュールな光景であった。米軍基地の広い敷地のひっそりとした一隅に、銀杏や柿の木と並んで、萌葱色に花咲く何本かの桜の古木があって、毎年その季節になると、私は視覚と記憶の混乱を起こしながらも、その眺めに魅せられていた。馬鹿げた比喩だが、それは青空を旋回し、しばし木々の間で羽やすめをしている鶯の一群にも見えた。しかし、むろん私の錯視などではなかった。それにしても桜の花を薄紅色と誰が決めたのだろうか?そんな者などこの世にいるはずがないではないか。

 満開の桜がその極みに自らが堪えられず、風に吹かれてはらはらと散り崩れて行くよりも、バラの花のように、姿、形がくっきりと、いつも乱れることもなく、迷いもせず、つねづねの常住坐臥の秩序の中で、自己完結をしている姿が大好きなのだろうYは、私には典型的な理系の技術屋に見えていた。輪郭のぼやけた物はどんなものであれ、彼のマトリックスな網膜が受けつけなかったに違いなかった。説明のできないものは不安であり、不安定なものは彼を苛つかせるだけであった。彼の美しさの範疇に、不安定さはもちろんないのであろうと思われた。

 散り急ぎ咲く花の妖しい生気にざわつきながら、万感のあわれに感じ入るのが、私のような何ごとも崩れゆくものに惹きつけられてしまう凡人のこだわりなのである。人は私を含めてなにごとにせよ、そこが崩れ行くのが自然な姿ではないのか。ピタゴラスの定理の美しさは、残念ながら浅学な私を魅力しない。一方では秋野辺の冷たい風にそよぐ、寂しげな名も知らない雑草の姿にはときに深く感動する。そして、この不確かな感動はいったいどこから来て、私の何にわだかまるのか、そこはどうにも説明ができないものなのだ。
 
 Yは機械操作の手順や運転スケジュールをびっしりとペンで書きこんだ、色褪せた黒い手帳を欠かさず持ち歩いていた。それは作業服の膨らんだ胸ポケットに行儀よく収まって、いつもちょこんと小さな顔を出していた。顔を出しながら、実は彼を背後で操る律儀という甲虫が、その膨らみの中に隠れてもぞもぞと蠢動しているような気がしてしょうがなかった。

 それにしても、この手帳の余白に彼の想像力の飛躍がはたして詰まっていたかどうかは怪しいものだった。彼の操作マニュアルの単なる記述手帳に、その中からひらめきの生まれる余地は少なかっただろうと思われる。ひらめきは危機的状況においてこそその真価を発揮し、存在理由が生まれる。

 もちろんそんな状況はめったにあるものじゃないから、彼の手帳からひらめきの断片が生まれる必要はなかったともいえる。客観データの記述から隠れた法則を発見し、故障や不具合の予兆を発見するには高度な想像力がなければならないのだ。はたから見れば堅物に思える彼だったが、現状維持の技術屋としてはこれでいいのだ。心のガードはバラの棘のように鋭く硬くとも、責任感はあったのかもしれない。
 
 私は前に貴方に何と言いましたか?たしか何々と言いましたよね。さりげない詰問には自信が溢れていた。そして相手の反論は大概許さなかった。彼はこちらがミスをした時もあくまで紳士の対応だったが、それだけにバラの棘のように、言葉がぐさっとこちらの胸を突き刺した。私は彼と話をしていると、外堀を埋めて静かに攻めて来る外敵のような、彼の筋書きをなぞる詰将棋の駒の一つにでもされたような嫌な気持ちに度々なった。

 そして彼は語りながら論理の流れを人に邪魔されるのを毛嫌いした。一度自分が喋り始めると、それがひと通り完結するまで、他人の言葉が差し挟まることをけして許さなかった。思考のシーケンスに外乱を許さないごときである。途中、相手の感想や疑問が生じることは眼中にはなかった。彼にとって他人は呪われた存在ではなく、出力誤差をなくすフィードバック制御の一要素のごときものでしかなかった。

 自分で話の終わりと決めているところまでは、会話の相手はじっと我慢を強いらされたに違いない。思わず同時にじゃべり続けながらも、その引き下がることを知らない彼の独り語りの壁に、何度私ははね返されたことだろう。この頑なに、相手に堰を閉ざしたような彼の心の余裕のなさを、私はいつも不思議な気持ちで眺めたものだった。