anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言 27

酔言 27

 昨年暮れに亡くなった義母の墓は大阪にあり、久しぶりにこちらにやって来た。というのは、同居する前の義母は長く大阪で働いていたのだ。その当時、妻と毎年、義母の一人住まいに訪ねた記憶がある。まさかその後、紆余曲折を経て四半世紀もの間、東京の同じ屋根の下に一緒に生活するとは思ってもいなかった。その義母も亡くなってまもなく一年になろうとしている。まさに光陰矢の如し。しかしながら、妻が用意した遺影の中の顔がまだ生々しくて、しかもなんだか怖くなるべく見ないようにしている。箪笥の上からこちらを見ていつも微笑んでいるが、私の顔を見れば、生きていたときのように、また語りかけてくるにきまっている。

 ホテルが天王寺駅のすぐ前、墓参りまでには余裕の時間があったので、足を伸ばした道頓堀の、観光や買いもの客の人の多さにあらためて驚き、日が暮れてからホテル近くの、寒々とした大阪の夜の底に、熱帯魚のように妖しく発光している通天閣を見上げて、さらに飛田新地に通じるこのあたりの居酒屋で一杯やった。あたりまえだが周りには、カウンターに座る私の頭越しに、男も女も関係なく、地元の生の大阪弁が速射砲のように飛び交っている。テレビに出るような浪速の漫才師といえども、こういう巷の人たちの分身にすぎないのであろう。

 飲み屋のテーブルに労働者たちが安酒をすすり、遊郭の名残りが残っているこの辺りを歩くと、性が商品としてこんなにもあからさまに路上にさらけ出されている場所は、今の日本でもそうは残っていないのではないかと思われる。こうした性に関することは、みな善悪をこえて、隠微に人目のつかない奥窓のうちで、毒の含んだ暗い花をひっそりと咲かせているのが真実なのだ。

 通天閣から少し足を伸ばして、私の大好きなジャンジャン通りや傍に伸びる薄暗い裏通りを抜け、物見遊山に飛田新地の界隈を歩く私には、このあたりの薄暗い、じめじめと黴たような空気には不釣り合いな、しかし眩しいほどの明るい照明の中の、玄関口で女将と一緒に顔見せしている彼女たちの姿がまるで画一化された蝋人形のようにしか見えなかった。自分を商品として見ず知らずの男たちに身体を委ねる、その過酷さを乗り越える彼女たちの笑顔には、私の減衰した性欲を駆り立てるものなどどこにもなかった。

 生殖行為そのものは実に即物的であり、エロスとは本来関係のないものである。エロスの本体は間違いなく想像力にあるのである。幼い中学生の夏、農家の娘であった従姉妹の家に、両親とともに泊まりに行ったとき、お互い好きだった彼女の起きている二階の部屋へ、真夜中、示し合わせて私が息を殺し階段を忍び上がるとき、その暗がりに軋む音に決心が出ず、上がれば下がり、家の物音があれば階下の暗がりに息を潜め、家人の寝息やいびきに聞き耳を立て、古い柱時計の打つ金音にも震え上がり、ついにはほんのりと明るいような彼女の待つ階上の行止まりまで、私の足音が届くことはなかった。東の空が白み始めていた。その時の疲労困憊し、無限に遠く感じられた階段のきつい上がり傾斜と、黒々と闇が広がって踏み板の息をしているような奥ゆきこそが、実は、私にとってのエロスそのものであったのだ。

 それにしてもちょっと荒廃した、すさんだ空気がその辺りに漂い、たった一人で死んでいくことを日常のサイクルとして許容する街、助けられることさえその自らの脳裏から放逐させられてきた社会の底の人たち。それでいて人情のあるここ西成あたりの雰囲気、そこに自由を感じざるおえない私がいる。おそらく歯車を掛け違い、ちょっと人生に間違えれば、いや、人生に間違いなどあろうか、今、サラーリーマンにこうしてなっていることが決定的な人生の間違いであるような気もするのだが、西成はひょっとしたら努力なしにすんなりと入れる世界かもしれない。

 巷の生粋の大阪弁の渦に包まれて、こうして素性を隠すように身動きもせずに、ただコップの中の酒をすすり、今日のサービス品のおでんを口に運んでいると、部外者の私にはことばこそが人の感性や世界の捉えかたをつくっていることをひしひしと感じてくる。その掛け合い漫才のような日常会話の日本語としての意味がわかっても、けして私には肉体化することのできない秘密の符牒を、お互いが投げ合い楽しんでいるようにも感じる。

 郷に入っては郷に従え、しかし、その自立した世界があまりに独特であれば、どんな場合もこちらの自己防衛が働くのだろうか、のみ込まれそうになるのを必死にこらえて、この地が孕む総体としての大きなうねりに打ち勝てる武器が、はたして私のこの身体の深部にあるのだろうかと自省しながら、しかし、この肉体にはあり得ない言葉のリズムや抑揚、その時の彼らの表情や仕草のナチュラルさが、その話す内容よりも、酒呑みの私を圧倒させるのだった。