anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

松沢日記 41

松沢日記 41

人さまのことではなく、配管の類いも「縁切り」という言葉を我々はよく使う。例えば使用不能になった配管は、撤去する工事の煩わしさを省くために、生きている部分はそのままに、鉄板などの閉止板を挟んでその先の要らない箇所を切り離してしまうのである。

 要は、流れてきた流体物をその先へ通してなるものかと、その工事業者の決意表明のような大げさな言葉を配管にも転用する。別れや縁切りはそうさせた人の心次第であり、そこまでに至るには複雑な経緯を経たものであろうが、一方、配管の縁切りは単に物理的な人の操作にすぎず、単純で明瞭なものだ。

 また人の世界の縁切りとは、人智の及ばない因果から見れば、小賢しい人間の思い上がりにすぎないのかもしれないが、物理的に、あるいは時間的に遠く隔たっていても、人の繋がりは消えるどころか深化を増していくことすらある。それは一方からであっても、亡き人と語らい続けることで生きていたときよりもお互い、その幽遠な関係性が深まっていくことさえあるのだという。私にはその経験がないが、真実であるのならばすばらしいことと信じているのである。幽明境を自由に行き交うことを実現するのは時間からの超越でもある。

 そもそも断つという行為を人の思うようになると考えること自体が尊大で間違いなのかもしれない。配管の縁切りもその物理的な遮蔽板の劣化によって、いとも簡単にその断絶が崩される。すべては変化して止まない真理は当然人の血の通わない鋼鉄にも、人間の心にも当てはまる。

 しかし何らかの目的達成の為に、人は日常の連続する小さな習慣断ちから、己の命を断絶してまでの、目的を成就させる方法を発見しているが、これはまるで自然界の不可逆のエントロピー増大を局所で急激に破るときに、自己組織化による秩序や生命が生まれてくるような、同じ質をもった例外にも思える。だからこそ、流転の只中の断つ’という行為は、逆行した世界に光る刃物のようでもあり、起爆力を秘めているのだろう。

 蒸気バルブの遮断した二次側配管の分厚いフランジ付近にピンフォールができ、そこから配管が冷えたことにより、普段の蒸気ではなく、溜まっていたドレンが糸くずのように、その穴から熱水となって吹き上がるのがはっきりと見えた。