anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

義母4

義母 4

同居の義母、ちーちゃんこと千鳥さんは95才、朝早く私が起きると、家の狭い廊下のフローリングに大小便が点々と落ちていて、朝一番、その点検と、後始末から私の一日が始まる。いくら言っても紙おむつをはいて寝ることを嫌がるので、そういうことになっている。まだ不思議と、自分の寝ているベットは汚したことがないので、トイレに行くまでに身体が緩んで、おもわず漏らしてしまうのだろう。まあ、いつもでは無いし、明日は我が身だからしょうがない。朝のお勤めは慣れてしまった。こういうときに、病院のトイレ詰まり復旧の、私がやっている設備の仕事でも、役に立つこともあるもんだ、と思う。

 今朝は、何度も今日は何日か?と聞くので、そのつど教えるのだが、すぐに忘れてしまって、また聞き返してくる。しょうがないので、あの大日本帝国海軍真珠湾攻撃をした日だよ、と教えたら、そのあとは何も言わなくなった。きっとわかったのだろうか? それに私が毎日、夕食の皿洗いやゴミ出しをしていると、申しわけないね、ありがとうと時々言ってくるが、私はほとんどそうしたことに答えるのはめんどくさく、相手をせずに無視をする。

 昔は、男が台所に立ってはいけない、洗濯などしてはいけないと、私の好きでやりたいことに制限をかけ、こちらの腹がたつぐらい言ってきたものだか、今は何も言わなくなってしまった。昔の人だから、心の中は今もってどうなのだろう? 私は洗濯機の水槽に、洗濯物が浮き沈みしながら渦を巻いているのをぼんやりと見ているのが大好きだったのだ。

 それでも、私自身はこんなにも長寿に生きられないと思っているし、ちーちゃんは頑固でわがままで自己中だが、それは彼女を通して、結局は私と似た者同士、私が許せない私自身を彼女の姿に見ているのだろうと思うようになった。そしてその自己完結型の生き方は、私はそれほど望んでいるわけでもないが、人間長生きの為なら、けして間違えてはいないかもしれないと、ふと思うことがある。

 ちーちゃんは朝夕、自分の部屋の神棚に祀っている先祖の霊に、小さな背中を丸めて、一生懸命に祈っている。私は気づかれないようにすぐにその場を離れるが、何を祈っているのかはもちろん知るすべもない。それでもちーちゃんのいずれ近いうちに来る終わりまで、借家の狭く小さな公団住宅ではあるが、こうした自分の場所をつくってあげられることに、私の幸せを感じることもあるのだ。人がゆっくりと朽ちていくのを、傍らにいてそっと見守るのは、私のような者でも、できるほんの小さなことの一つなのではないかと、最近、思うことがよくある。