anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

酔言 24

酔言 24

昨年、アイルランドで行われた体操競技、大会表彰式での出来事という。少女たちが順次メダルを首に掛けられる中、画面に映る黒人の女の子だけがスキップされた。こんなあからさまな絵に描いたような差別は、おそらく個人的な行為というよりは、この大会の開催された社会そのものに根があるのだろうかと思い、それはそれでなおさら胸が痛くなった。

 ヨーロッパ、その北欧でも東洋人ということだけで、私は個人的に笑うしか仕方のないほどの人種差別を受けたことがあった。実は、今でも思い出せば怒りと、そのあまりの馬鹿馬鹿しさに笑っているのだが、その時のことが少女の戸惑いと悲しい顔の上にフラッシュバックして、胸が痛んだ。

 このメダルを与える大会役員の女性や少女無視のカメラマン、気がつきながらも仲間のために抗議しない隣りの少女たち、騒がない観客、これは自他に同質感を求め、内外に垣根を作り(しかし同質とは空気のようなもので意識化されないことが普通だろう。なぜなら、そのパラメーターは居心地の悪さで感じるしかないからだ。しかもそうして感じた疎外感は国内に居れば少数者に限られるだろう。この国が好きな国民は嫌いな国民に比べて圧倒的に多いというのだから)、おそらくは外ものには差別意識の強い私自身、あるいは我々日本人の姿でもあると思う。

 例えば私が個人的に嫌われるのは、そこに相手の、あるいは私自身に理由や原因があるのだろうから、それはそれでいい。そして相手には私を嫌うことの自由さえあるのだ。しかも人を嫌うことは好きになるよりも容易であることからして、日常ありふれたことであろう。しかし、東洋人だからと、あるいは黒人だからと相手を嫌い差別、攻撃することの自由が、はたしてどれほどゆるされるのだろうか?差別とはひょっとして人の本能であるとしても、その差別の正当性などというものがあるのだろうか?何人も自分が選好(理想)するものを相対化して妥協をはかることをしなければ、社会は成り立たないだろう。

 白人、黄色人、黒人、そして日本人に生まれたのにはまったく理由がなく、そのことに責任は生まれないと、私は考える。そうした理由なき差別、人種や国籍、性別等の属性を、偶然の気まぐれにすぎないとは考えない輩、はたまた偶然のつかさどる相互の互換性に思いをめぐらさない輩のなんと多いことだろうか、この私の国の住民は。