anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

霊魂

『亡くなった人の気配はあたたかい・・』
 
 先日、街の古本屋で買った百均本、瀬戸内寂聴美輪明宏の 『ぴんぽんぱんふたり話』 集英社を一気に読んでしまった。二人とも、特に美輪明宏は生前の三島由紀夫とは、彼自らの言葉に従えば「入魂し合った仲」なのだそうであり、本の中の二人の話題もまた、自然と共通の知り合いである三島由紀夫に触れることが多いものであった。それゆえ私にはこの処分本は、掛け値なしに掘り出しものであった。

普段は気にも留めない話題だが、それでも、霊魂の話は人を惹きつけるなにか不思議な力をもっている。お盆が近づけば今も怪談話に涼を求めるように、幽冥の境(さかい)を異にして、親しい人の死とは、神や仏や霊魂を信じないものにとっても、その死んだ者たちのいる冥界に近づく機会を、我々に与えることがあるのかもしれない。

しかしながら、私自身はそうした神、仏、霊魂自体の何物かを知ることは、たいして意味のあることではないと思っている。なぜなら、そうした霊魂が実在してもいなくとも、今のところ私自身の生きることにはなんら関わりのないことだからである。だがそうした不可知で確認未了なものに対して、人それぞれがどういう思いを懐き、あるいは如何なる態度をとるかについては、大いに私の興味のあるところではあるのだ。

 そんな私でも、この対談集を読み進めるうちに、おやっ?と思った箇所があった。冒頭に書いた、亡くなった人の気配はあたたかい、である。実はこの言葉を目にして、私は父の死んだ当日の情景を鮮やかに思い出したのだった。その死ぬ6年ほど前に、職場の労働災害で脳を損傷したが、運よく九死に一生を得た父だった。しかし一度破壊された前頭葉の脳細胞が生き返るわけでもなく、長い間、痴呆老人としてなにものかに生かされ続けた。それで私にとっては、生き身のままの意思の疎通がなかなかできない、まるで遠い彼岸の人でもあったのだ。

ところが死んで骨となり、実際の彼岸に渡ったはずの父が、死んだ日の直後から、私の意識の中でたじろぎもせずくっきりと、まるで私のすぐ隣にいるような、葬式の涙を流す親族を尻目に、父と私だけが周りの悲しみから別所にいて峻立しているような、二人だけの秘密を共有して微笑み合うような、そんな奇怪な感覚に私は陥ってしまっていた。生きていたころよりも死んだ父の方が、今の私に親しく感じるようなことがあるのだろうか・・。

その時、たしかに私の全身はすぐそばに父を感じていた。焼き場から骨壷を抱いて実家に帰り、生前、父がいつも寝ていた畳の部屋にこしらえた枕元の小さな祭壇に、その素焼きの骨壷をそっと置いた。斎場からようやく戻ると、疲れきった私は隣の部屋で知らないうちに眠りに落ちてしまっていた。

夜中、ふと目が覚めた。祭壇の蝋燭の火が気になって、隣の部屋を覗いてみた。火は明々と灯っていた。母がその火を絶やさないように、蝋燭の芯をときどき接げかえていたのだろう。少し前から私の心は何かを察知していた。私は部屋に入るなり父の気配を感じ、その存在感に圧倒されてしまった。それは蝋燭のやわらかなの火明かりが、縄の目を解かれた米俵から、一気に溢れ出す米粒のように、私のなかに直接なだれ込んできたと同時であった。

私を包みこむその父の気配は、まるでまとわりつく無邪気な子供のようだった。そしてそれは無性に懐かしいなにものかだった。私は霊魂とは子供の容(かたち)をしているのではないかとその時思った。私の遠い記憶の彼方の薄明の中で、揺籃に揺られているような父の懐かしさ。そのそばの感じる気配は無邪気な子供ではあるが、それが死んだ父の魂であることは、私にはすぐに分かった。

目の前の蝋燭の炎にゆれる遺影は私を見つめ微笑んでいる。そのとき私は突然、彼は確実に死んでしまったのだとはっきりと悟った。けして戻ることのない道をまさに今、死んだ父が歩いているのを実感したのだ。それとともに私の周りは、彼が亡くなってから初めて流す私の涙で、何も見えなくなっていった・・。

数年が過ぎた。明け方近くに、布団の中でうつらうつらとしていたら、久しぶりに死んだ父のことを思い出した。私には産みの両親を今もって知らない。そんなことは健在の老母に聞けばわかることだが、敢えて聞かないことに決めている。その夢の中の死んだ父だが、思えば私にはひどく懐かしい。

実はこの懐かしさは、生前の父の私に対する愛情から発しているものだろうと思っている。彼が死んだあとも、その愛情の源は渇することがなく、どこかで続いているように思われるのだ。その父がいったいどこに行ったのか、当時、私なりに小さな頭で真剣に考えたのだが、やはりそれは皆目わからなかった。

だが生き残った者それぞれが、死者と通じる道は必ずあるのだという。生きて疎遠になった近くの人間より、死んで遠くに行った人になつかしさを強く感じるのは、やはり呼びかければその魂がすぐ私の近くにあるからなのだろうか・・、それは今もって、わからないことに変わりはない。