anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

三島由紀夫、遊就館

 三島由紀夫の文学的表現の豊穣さは圧倒的だ。散文で書かれたイメージの喚起力がこれほどまでに冴えて、私を酩酊させる作家はそういないのではないか。時にはずいぶんとあざといと感じる文章もないではないが、やはりこれは日本語表現による到達した一つの極であり、一方の文学的才能の達しうる限界を示しているのではないかと思う。何よりも彼の多くの作品が戦後数十年のうちに書かれたものであることから考えても、今もってその文章はみずみずしさを保ち、その異様な言語造形の中に、日本語の可能性を未だ充分に秘めているものと思う。


 志しある作家なら生涯のどこかの時点で、この三島という異様な文学的現象と、きっちりと向き合わざるおえない時が必ず来るだろう。もちろんその峰高い三島越えにも色々の仕方があるのだろうが・・。ある評論家が彼のことを「豊穣なる不毛」と評したことがあった。確かに言いえて妙の言葉だ。しかし、なぜ三島の作品があれだけの的確な表現力、惜しみもなくつみ重なるイメージの連鎖、そして神韻漂う陰影の深さがありながら、「不毛」と断じられることがあるのだろうか? その実感は私の気を重くする。
 
 
 最近、四半世紀ぶりに少しずつ三島由紀夫を読んでいる。『愛の渇き』、『近代能楽集』と『潮騒』は私にはすばらしかった。そこには三島その人が消えて、作品自体がくっきりと作者から独立している。言葉には妖しいほむらが立ち作品を匂い立たせている。凝縮された文体は隙がなく完成度が高い。それに比べて『仮面の告白』は三島の素質が横溢しているが、私には一回読めば充分だった。所々に作者の自愛が垣間見られて、その若書きの観念臭さが、どうしても鼻についた。
 
 
 『金閣寺』は通俗的との評もあるが今後も私は読むだろう。それは、この長編に於いて三島の特質を有り余るほど堪能できるからだ。私のような芸文の凡夫が、迷妄の境より目が覚めるのには、開いた三島作品の数ページごとに、手書きの赤い傍線を書き重ねるだけでよかった。この日本語表現の極北は、進んで踏み惑うには、すばらしくも稀代な言葉の森なのだ。自己と対する物象の関係は、彼の強い視線によってむき出しにされ、物象に貼り付けられた既成の意味は崩壊し、まったく隠れ潜んでいた物の本性が美をともなって現れてくる。彼の意識は視線そのものに即物化し、前方を真っしぐらに飛んで行く。彼の視線に照射された無機質な物の形は、まるで過剰の生命を得たかのようにその本性を開示させられる。三島の才能によって物と意識は垣根を外されたのだ。そこに美が、不安定なかすがいの役目を担って、この異質な二つの相反する領域を繋ぎ合わせていた。

 しかし、この『金閣寺』の中に、フランスの作家ジュネとサルトルからの感性の剽窃を感じ取ったのは私だけではないのではないか・・。三島が彼らにどの程度影響されているのかは知らない。作家三島における美についての完全なオリジナルティの輝きは、しかもあえて大胆に言うならば、ひょっとしたらその表現方法としての文体だけかもしれないと思うのだ。三島の文章はひとしずくの雨滴が同心円の波紋となって次々と水面を広がって行くように、読み手側の美的な痙攣への期待と予感が、その言葉の森を絶え間なく先に先にへと読み進めさせる。しかし、私は読者にとってそこには本質的な難解さはないものと思いたい。

それにくらべて、今、読んでいるリルケの『マルテの手記』は容易に先に読み進むことができないのだ。これはその翻訳から生まれる障害だけが原因ではないであろう。そこにはたんなる言葉の理解だけでは到底追いつけない世界の、それも平凡な日常用語の文脈が続いている。リルケのこの一見易しい言葉の、一つ一つの背後には濃い闇があり、どうしたって読み手の観念の勇み足を赦さないのだ。三島作品から受ける「不毛」の印象は、このあたりにその謎があるのかもしれない・・。

この写真をじっと見て戴きたい。今宵、私が居酒屋に立ち寄る途中、驟雨の中ほど、民家の軒下で雨宿りをしながら、何もすることがなく無聊に一枚を撮ったものである。菅笠をかぶった官軍風の男が、雨の降る横断歩道をこちらに向かって歩いてくるように見えないだろうか。しかし今は現代である。よく見ればもちろん、濡れた舗道に夜灯の光の陰影ができているにすぎない。

私はこのとき、三島由紀夫の『憂国』や『英霊の声』を、他の作品とともに矢つぎばやに読んでいた。それは戦前、軍事クーデターを試みて処刑された若き将校達の純粋な魂が、『英霊の声』とともに、三島の手をかりて暗い過去から蘇えってきたような小説であった。三島はさらにこれらの小説で、至高の「すめらみこと」であった時の天皇自身も糾弾したのである。三島のファナテックな情念はいささかも衰えることなく、この私を重苦しく衝き動かしていた。だから写真に写るこの雨中の菅笠の黒い男は、三島の魂がこの世に連れてきたものであろうと思った。
 
秋雨のじめじめと降りそぼる中、仕事からの帰り道、いつものように駅前の居酒屋に立ち寄り、独りで飲んでいたが、話す相手もなく、つれづれに三島由紀夫の『英霊の声』を読み始めると、その小説に登場する若い将校達の霊が私に乗り移ったのだろうか、私は不覚にも、にごり酒の盃を手にしたまま、いつのまにか本も閉じ、夢見の境で、すっかり酔いを回していた。暖簾の外は、降り始めた新雪の無音に立つ、首相官邸の気配を感じていた。
 
 三島由紀夫のこの短い小説は、フィクションと考えても、余りにも荒唐無稽な話である。そして現代においては、霊魂を信じない多くの者には馬鹿馬鹿しい筋立てなのだが、しかし、三島がこの小説を何ものかにとり憑かれ、これを一気呵成に書いたであろうなりふりを、私はひしひしと感じたのだ。文中にみなぎるその緊迫性は三島の言葉の力によるものなのかもしれない。だが、私には、茫々たる水平線の月光にとけ入ったその彼方から、強い潮の香りとともに、軍服を着た兵士達の一団が、波間の上をざわめきながらこちらに近づいてくるのを、酔いの視界の先に見えたような気がしていた・・。
 
 思えば靖国の支える世界の背後には、実はこうした物狂いに似た、かむながらの、怖ろしい世界がびょうびょうと続いているのだろう。雲間から射し込む月の光に照らされた海上に、義軍を起こし、叛乱の汚名を蒙って処刑された、若い将校達の荒霊が集まってくる。彼らの海鳴りのような囁きは、潮風に乗って、夜の潮にくぐもり、響きあい、互いにもつれ合って、墨のような藍色の海にさめざめと広がっていく。「恋して、恋して、恋して、恋狂いに恋し奉ればよいのだ。どのような一方的な恋も、その至純、その熱度に偽りがなければ、必ず陛下は御嘉納あらせられる・・・」三島は小説を借りて、鮮やかに自分の声を語った。
 
 しかしながら、以前、靖国神社の境内に建つ遊就館を見学したとき、私は頬をつたう涙がどうしても止まらなかったのである。おそらくそれは、我が国の宰相(小泉)だった男が、元特攻基地で感動’のあまり流した涙とはあまりにも違ったものだったろう。この国の為に犠牲となった死者達の魂を、国家がこれほどまでに、その行為を己がために賛美し、勲章で飾りたて、崇め高めていいのだろうかと・・。至誠な死者達に対する、これほどまでの冒涜があるだろうかと・・。その時、私の涙は憤怒で黒く染まりそうだったのだ。

 死者の存在は、如何なる理由があろうとも、何人も利用できるものではないのだ。死の事実は死者のうちにこそ厳粛にあり、生き残った者達の脚色からは遠いところにある。死の純粋性に、他者の恣意や賢しらごとが入る余地はないのではないか。そして口のきけない死者達の勝手な合祀や、戦没者を称える顕彰としての靖国神社は、不幸な死を扱うには余りにもイデオロギーに染められていた。死人に口なしの言葉はふたたび反響して、声高な私達の口をも閉ざすのである。 
 
 靖国参拝で涙を流す理由は、当然ながら人それぞれ違うだろう。しかし、私は思う。靖国批判をする人間は、この三島的世界と民衆の心情の広がりを知らなければならないし、なぜ個人の価値が国家に先立つのかを、はっきりと我が身の言葉で説明しなければならない。また、靖国擁護の人間は、なぜ国家という漠たる存在が個人よりも重きをなすのか、強制により一人の人間が死に追いやられることをいかようにして説明できるのか、その理由を明確に述べなければならない、と思うのだ。