anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

松沢日記 31

 その理知的で端正な背広の似合う人はいつも、朝早く、我々通勤人が大勢通り過ぎて行く傍を、火ばさみとビニールの回収袋を抱えて、歩道に落ちている紙屑やら空缶をそそくさと拾い集めていた。駅から吐き出されて行く通勤客の流れは途絶えることがなかった。その流れの中をまるで浮つ戻りつ、泡沫の泡の如しといえば見映えがいいが、それだけに、この時間帯のこの場所には不釣り合いの異様な光景に思えた。

 私にはどこか周りの空気を読まない、単独独行の孤独者に見えた。思い詰めたような眼差しが背景に馴染んでいないのである。あるいは怒ったような手足の動きが、長蛇の列のバス停で苛々の募った、他の者とは一緒には到底長く待つことのできない、そんなこの同調社会からは浮きでた人として眺められた。すれ違う人は彼から目をそらし、どこかもうしわけなさそうな表情に見えたが、あえて挨拶以外に話しかける人もいなそうだった。

 彼は松沢の元病院院長S氏である。現在は松沢の名誉院長であり、時々、広い病院内で内診している姿を見かけることもある。八幡山駅から、数分歩いたところに松沢の北門があり、朝夕の通勤時間帯にはたくさんの病院関係者が出入りをする。その北門からさらに奥に向かって300メートルほど敷地の中を歩いて行くと、病院建物の玄関にたどり着く。途中、木立の下の遊歩道にはベンチが所々に置いてあり、この距離を歩くのにもきつい通院の患者さんが、そこに座ってしばし足休めをする姿を見かけることがある。

 私は最初、その一心にゴミ拾いをする彼の姿を見るのが嫌であった。あまりにも作為的に感じたのである。どういう思いで彼がそんな善行をしているのかはもちろん分からなかったが、少なくとも大病院のトップがやることとは思えなかった。まして、純粋な気持ちにその動機があるとしても、こんなにもたくさんの病院関係者が通行する只中で、これ見よがしにゴミ拾いをする、その感覚が目的はどうであれ、エリートの考えそうなことにも思えた。

 ところが私もそうだが、彼の行動を見れば余計なことをしていると思いながら、心の一隅に申し訳なさの痛みを覚えるのである。これをたくさんの看護師や下請けの人間が見たらどう感じるだろうか。通りがかりの下々の警備員や清掃員や設備員が見たら、その時、どんな思いが胸の中に起きるだろうか。その意味でそこを忖度しないのをエリートと言ったのである。極端な言い草をすれば、大会社のオーナー社長が会社のトイレ掃除をしていれば、清掃員にとっては大きなはた迷惑なのである。

 そして、6年経って再び私が松沢で勤め始めた時、朝の彼の変わらぬゴミ拾いの姿をそこに発見した。私は驚きと言葉ではいい表せない感動に包まれた。彼の意志は6年という時の流れにもびくともしなかったのである。社会的な慣習から見れば異形な行動がこれだけ長く続くということは、彼の内心や動機に、他者にはけして影響を受けない一貫して自立する強いものがあるということであろう。私は日常に於いて、語る内容の整合性よりも(例えば論理整然と間違える)、最後は、それが続いているかどうかの方が、その人間の言動の確からしさを判断する基準になるだろと考えているから、まさに彼の行動は目的や動機はどうであれ、本物であると思わないわけにはいかなかった。