anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

浄閑寺

 勤めている店の内輪話を長々と聞かされたあと、ちょっとした無言が私たちを閉ざした。目前のマンションの蛍光灯がまたたき始めたガラス窓に、咲きかけた牡丹の花の、垣根越しに枝のゆれる姿が浮き上がった。夏越しに備えた水苔がその地面を青々と覆っている。そこには遠い微かな記憶のような、花街の面影があった。受話器の向こうの彼女が煙草に火をつける音が聞こえて、はっと我にかえった。庭に広がる草むらの虫のすだく声が、三階のこの部屋にも昇っきた。

 

 「貴方がどうしてそんなに私を気に入ってくださるのかわからないんです。でも、あなたと知り合って実は私、今、心から嬉しいし幸せなんです・・。あなたはきっと気づいていないけれど、私の前世に借りがあります。そして、ようやく私を捜して見つけてくれました・・」 

 

 私の耳元に届いたライターの火をつける乾いた金属音が、見慣れたこの女の控えめだが、歳のわりには客慣れした仕草と、そのきめの細かい肌の手触りをふいに思い出させていた。あの時、ホテルに忍び込んだ夜の湿った暗さのなかで、女の黒い瞳の底を、粘りつくような濁った光がゆらゆらと満たしていたのを覚えていた。入り口脇の、小さな冷蔵庫から漏れている青く淡い光が女のからだの隅々にまで落ちて、丸みをおびたその滑らかなうねりを彫っていた。女の肌のぬくもりには、たしかに懐かしい匂いがしたと、受話器を握りながら思い出していた。 

 

 「 だから明日は私の今までの中で、一番嬉しい気持ちで、貴方に抱かれに行きます。貴方の女として、まだ実感のわかない私だけれど、あなたの男を身体でまた覚えてくるの。だから早く会いたくて・・、私、せつないの。一緒に居ると、貴方に私の心も身体も、なんでも知って欲しいと思っちゃうの。そして、その通りなんでもするはめになっちゃって、あまりの早さに戸惑って、夢中になって、貴方とひとつになって、いなくなったらどうしようって・・」

 

 とるに足らぬ日々の喧騒と、窓の外の深夜の街のざわめきが、急に遠ざかって行くのがわかった。沈黙の中で、ばら色に硬く燃え立つ男の筋肉が、痛いほどの硬直をその尖端に集めて、藻のたゆたう春の海に身を沈めると、ゆっくりと漂い始めた。ふたりにしか見えない崖の上の松明が、青白い光を放って絶壁の下を照らしていた。

彼らは夜の海の密航者となった。荒磯波の見え隠れする遠い目的地へ、前へ前へと、一つになった意識の塊りが、風を孕んで夜の海を駆け抜けて行く。時折、まどかな円環を突き破る、激しい震えがふたりを襲った。弓なりに身を重ねながら、しだいにやすらかな屍と変化していった。そしてふたりはそのまましののめの眠りの前に力尽きた。

 

 「私、子供を産んでいるのにそれはお腹を切って出しているから、私は女として熟していないんだと思うの。あなたが言うように、私が幼いのもそのせいかもしれない。でも、あなたに、私の届かない一番奥まで貫かれたときに、突然、頭が真っ白になって、何か私の中のスイッチが動いてしまったみたいなの。しばらくは頭が麻痺するほどそれは衝撃的だったのよ・・。だから、これでほんとうに、私はあなたの女になれるんだわ・・」

 

 生まれては苦界を彷徨い、死しては浄閑寺に埋もれる。男に値踏みされ続けた女達の亡骸は、粗末なむしろに包まれて、浄閑寺に捨てられたのだ。そんな中に、お前の骨も長く冷たい雨風に晒されて、地下納骨堂の地上にせり出した、この格子の破れた明かり窓から、白い顔を覗かせていたのだった。

 

 お前と私は廓で隔てられたが、死して別れても、その三世を誓った仲であったはずだ。しかし、私はお前を裏ぎり逐電した。雨に打たれたお前の愛おしい身体からとけ出た魂は、この吉原の不浄の大地に、哀しく滲みわたっているに違いなかった。お前は、蒸した夜には紫の陽炎となって立ち昇り、晴れた昼下がりにも突然の黒雲になり、夕にはえんじ色の驟雨となって、私を呼ぶために、私の背に再び降り注いだのだった・・。