anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

広尾界隈

 地下鉄広尾駅を地上に上がったところの交差点を、そのまま東の方角に少し歩くと、南部坂下という地名にさしかかる。江戸時代、このあたりには盛岡藩主南部美濃守の下屋敷があったという。坂は険しいながらも見通しが効き、五分も歩けば登りはすぐに尽きる。尽きてその勾配が緩んだところで、額に滲んだ汗をふきながら後ろを振り返ると、江戸の情緒をどことなく残した坂道の裾野に、今も土色の瓦屋根が古色蒼然と点在する、広尾のくすんだ街並みが広がっているのが見えてくる。 広尾近辺は麻布の南西末端につらなり、武蔵野の台地と長い年月をかけて形成された侵食谷がつくる、起伏に富んだ地形でもある。

       広尾から麻布にかけての一帯は昔から閑静な住宅街であった。また各国の大使館が多く集まる外交特権地区でもあった。そのせいか南部坂下のオープンカフェには、外国人のくつろぐ姿を見ない日はない。犬を連れた外国人家族とすれ違う、乳母車をひくアジア人のベビーシッターが歩いている。斜め向かいにあるスーパーの棚には海外の生鮮食料品が溢れ、レジを打つ店員も日本人ではない。今も昔も肌の色は違っても、この広尾や麻布の高台には、いわゆる特権階級と呼ばれる輩が住まっているようだ。

      しかし思うに、陽気な異国の外国人にはこの坂道は似合わない。やはり東京の古い坂道は、内向きの恥じらう姿にやさしい顔を向ける。だから和服姿の日本女性は坂道でよく映える。もしそこに小雨が降って、彼女が傘を差していれば申し分がない。脇を流れ落ちていく側溝の水音は清らかで寂しく響いている。もっとも例外もある。坂の中ほどに立つ異国の古びた石造りの教会は、この坂道にしっくりととけ込んでいる。それは尖塔の透き通るような鐘の音が、彼らの祖先とともにこの地にやってきて、あまりに高圧的であった彼らに、その本来の内省の促しを鳴らし続けたからかもしれない。促しの鐘の音は低く垂れこめた雲にとどくと、ふたたび地に降りてきて、この坂をかけ上がる文明国からやって来た異国人のこうべを、少しの間、自分自身に向けさせたのかもしれない。

      南部坂の両側をはさむように塀が続いている。ドイツ大使館の長い外塀がその右手を塞いでいるのだが、外塀といっても何の変哲もないコンクリートの壁に、日独友好のイベントや、そこに関わった人物の記念写真が転写しているだけである。左手を望めば、塀の向こう側に欅(けやき)の大木が鬱蒼と枝を伸ばして、枝葉の壁をさらにつくっている。見上げると欅のこずえには蝉がうるさいくらい鳴いていた。私の気づかないうちに、夏はもうとっくに近くまで来ていたのだ。少し前を、父親に手を引かれた男の子が、日盛りの坂道に麦藁帽子のゆれる淡い影を落として、地面に転がる茶褐色の蝉の抜け殻を拾いながら上って行くのが見えた。

      私は息を切らしながら坂道を登りきると、左手にその欅の森が不意に途切れて、図書館入口の灰色の石門が現われるのが見えた。そこには昭和9年開園、有栖川宮記念公園という文字が刻まれていた。園内の欅の重なり合った葉を透いたまだらな光の先端が、石面に窪む有栖川という文字をやさしく撫でていた。私には軍楽が打ち鳴らされる中、門の傍に立つ石の束縛を解かれ、有栖川宮の園内を駆けめぐる馬上の姿が、その奥に見えたような気がした。

       明治とともに南部藩邸はなくなり、この地は幕末戊辰戦争の官軍の総司令官であった有栖川宮の御用地となる。その後有栖川家も世継なく断絶し、時の東京市に下賜されたのち、公園として東京市民に広く開放されることとなったという。公園の渓谷の流れは下って池をつくり、岸辺で釣り糸を垂れる子供たちを見守る四季の樹木の変化は美しい。特にその銀杏の落葉が、木製のベンチを黄色に染める秋はたとえようもない。

       石門の前に立って園内を覗くと、鬱蒼とした緑の木立の隙間に、何か白っぽいものがちらちらと動いているように見えた。風にそよぐ木々の奥で、私の目にははっきりと見えない何かが隠れている。一瞬、初夏の白樺が私の脳裏に浮かんだ。しかしこんな都心に、寒冷地に生息する白樺があるわけがない、あるいはそれは私の想像を超えた大邸宅かなにかであって、宮家や財閥の秘密の別荘がその先にあるのだろうか・・。だがすぐに、枝の上から私を威嚇する大きなからすの声に、私が見た幻はかき消されてしまった。からすが飛び立つと、風が吹き込み枝がゆれて視界が開けた。そこに私のこれからの仕事場になるはずの中央図書館の白い建物が、ひっそりと立っているのが見えていた。