anehako’s diary

ノート代わりの下手な駄文を書き連ねています。書き替えも頻りで、

薄桜色の遺言

人は死んで半日も経てば、充分に冷たくなってしまうことを初めて知った。歳のせいもあるのだろう、頭皮がなめし革のように骨に張り付いている。それでもこれだけ冷ややかな手触りだと、さぞかし本人も気持ちが良いに決まっている、と思った。

 ドライアイスも使わないのに、額に当てた私の手から伝わってくる頭蓋のひんやりとしたその冷たさは、もはや生きた人のそれではなく、唯のむくろのなれの果て、むしろ職場で私がよく手にする、破れた断熱材の下に時々顔を出した、あの金属管の冷ややかさと同じ類いの物のような気がした。
 
 半世紀近くの執拗な腰の痛みや加齢黄斑変性症も、誤嚥性肺炎や私を含めた人とのわだかまりも、皆、きれいに取り払われて、母は実に穏やかで優しい顔をしてベッドに横たわっていた。人は重荷を下ろすと、こんなにも柔和な表情をするものだろうか。苦しみの跡はどこにも残っていなかった。こうして見ると寿命が尽き、朽ちていく人の行きつく果ても、そうそう悪いものじゃなさそうだ。
 
 我々の強い思いがこの身体へ深く食い込めば、かえって言葉にはならないものだ。食い込み深く、しかもそれをもたらす意識下の傾斜が急であればあるほど、言葉にすると、その真実が逃げてしまうものである。やはり、われわれの身体には言葉さえ届かない深度がある。
 
 産みの母ではなかったが、私がこの世で母という言葉で呼ぶことのできる人は彼女だけだった。その母が札幌の介護施設で先週、死んだ。たとえ血が繋がらなくとも、この言葉が私に喚起する感情の数々は、ほとんどが彼女からもたらされたものだった。私にとっての母という言葉の切迫さには、その時々の彼女の存在と意味に繋がっていたのをあらためて感じる。そして、その生身の存在は消えて、意味だけが私に残った。

 台車に乗って炉から出てきた白骨はどこかすがすがしく見えた。収骨室ではすでに焼き上がりの湯気も立てておらず、荼毘にふされた骨はさっぱりとした白磁の壺の肌合いさえあった。カルシウムのかさかさとした音をさせ、すでに係の人に箸入れされた為であろうか、トレーの上で礼儀正しく、私たちに拾われることを待っていた。
 
 人の骨を拾うこと、これで何度目になるだろうか。自ら望んだわけではないが、他人の骨を拾うことが増えるのは、すなわち私自身が歳をとった証明にもなる。人を焼却すること、死者を焼くことに立ち会うのは、普通には日常にないことである。
 
 火炉からでてきた人体の、生前とのあまりにも違いに声をなくしたのは、はるか昔の子供のころであった。私はそのあと何日ものあいだ悪夢にうなされた。かろうじて台車の上で人の形跡を残した人骨と、そこから立ち昇る湯気にむせかえるような臭いが、私の鼻腔と脳裏から離れなくて、恐怖だったのである。
 
 そういえば、義弟の嫁の実母が亡くなったときも骨拾いをした。今年の春のことだった。それほど付き合いはなかったが、何かの折には親戚として顔を合わせた。入院中に、急に容態が悪化して亡くなった。数日前には普通に娘と話していたという。旦那が失踪したのち、スナック経営をしながら一人娘を育てあげた女傑であった。
 
 彼女を荼毘に付した市営火葬場には焼却炉が2基あるだけで、こじんまりとして寂しい施設だった。私たちが到着した時は、すでに隣りの炉はぶんぶんと音を立て燃えていた。笑顔の若い男性の写真が炉の前に置かれているのが目に入った。どういう理由で亡くなったのかは知る由もないが、残された家族はさぞかし悲しいことであろうと思った。
 
 骨拾いは私を含めてわずか5人であった。それでも、時間がきて控え室から収骨室に入るとアルミのトレーに遺骨が並んでいた。女性の担当員が、すでに拾う骨だけを選別していた。聞くと市の職員であるという。小さな箒と箸を使って要領よく分別しながら、私たちに焼き上がった骨の名称を丁寧に説明してくれる。すべてが澱みなくマニュアルの上を進行していくように見えた。
 
 私は白茶けた遺骨を骨壺に入れながら、人間はここまでなんとさっぱりと、脳みそや内臓、体液や筋肉の五臓六腑をすべて焼き尽くして、究極の抽象性に至れるのかと思わずにはいられなかった。生きてきたすべての汚辱や後悔、心残りや寂しさが、この目の前に散らばる圧倒的な物質性に還元された、あるいは単純化されて一切の説明を必要としなくなった姿に、小さな感動すら覚えたのだった。
 
 それはそう遠くない将来の自分の姿をそこに見たからなのか、単に歳を重ねて見慣れた結果にすぎないのか、それともだれもが逃れることのできない平等の結末を受け入れることができたからなのか、私が短い人の人生をあらためて噛み締めたのか、どちらにせよ、火葬場の骨を見てそこに無機質と清浄を感じたのは初めてのことであった。

 
 介護施設に入るには当然、利用者の身元保証人か引受け人が必要である。そして子が遠く離れて暮らしている場合には、近場の親類ということになる。私は兄弟もいないので、これが色々とこじれる原因にもなった。
 
 おそらくその当時、母は離れて住む私のことをさんざんに親戚に中傷していたと思われる。原因は親の面倒を看ない私にあった。しかし、東京に一緒に住むことの提案はしていた。もっとも、妻の義母と25年間、公団住宅に3人同居していたので、近くの高齢者施設に入るということが条件だったのである。
 
 結局、母の面倒を実質的に見ることになったのは従姉妹とその旦那であった。今でも、彼らと交わした会話が鮮明に記憶に残っている。あの時、札幌の彼の家に泊まり、朝まで話し合った。窓の外に白々と明けていく空を見ながら、私は初めて話し合いでは解決できない、世間というものの強烈な拒絶を身に引き受けた。
 
『 いやいや、そんな事はこれっぽっちも考えたことありませんよ。
嘘だ! 言葉の節々にお前の本心が見え隠れしている、と彼は吐き捨てるように言った。
 いったい私の本心ってなんですか?
お前のように親の面倒を人任せにすることだ。
 でも、そうならないよう東京から駆けつけ、こうしてお会いしてるじゃないですか。
なぜ、お前が親の特養の身元保証人にならないのだ。
 それはまったく母自身から知らされていなかったことで・・。
叔母さんの最後を看取るのはお前なんだぞ。
 それは勿論のことです。
今後も、叔母さんの頼みは聴くが、お前の頼みは一切断るからな。
 はい、でもこちらから今までも、何も頼んだ覚えはないのですが。身元保証の事も理由は分かりませんが、私でなく奥さんになっていました。しかし、母自身の反対を押し切って、改めて私が引き受けました。母はまだ元気ですが、このたびは市内のいくつかの葬儀屋にも話を聞きに行きました。
そんなことは当たり前だろう!自分の母親だぞ。とにかく、お前が昔から嫌いなんだよ。
 そうですか、すべては母からの言葉だけで、そちらが誤解されてるとしか思えないのですが・・。しかたがないです。
だから、もうお前には一切関わりたくないのだ』
 
 それにしても、老いた親の面倒を見る、これは普遍的なことなのだろうか? 日本などの儒教の伝統がある国では、当然のこととして、いや、先祖供養も兼ねて、人としての最高の徳目、「孝」という、社会規範の中核にさえなっている。

 私と両親の、とくに母親との感情のぶつかり合いは、そこの根本的な違いに発したものだろう。子供は親の面倒を見るべきである、と。藁の上からの養子、おそらく私を生まれてすぐに引き取って育てたのは、言葉にこそ出さなかったがそこが一番の大きな理由だったのではないか。
 
 
 ほの暗い夜明け近くに、おそらく誰にも看取られることもなく、12年間住んだ養護施設の3階隅の小部屋で、介護ベッドのシーツの中に一人死んで行ったあの日から、恨みつらみがあるならと、彼岸に去った母の繰り言にじっと耳を澄ましているのだが、それにしても不思議なことだ、人里離れた大地にこぼれ落ちた栗の実のように、母は秋空の奥処(おくか)に固く結ぼれて、私にはいまだなんの気配も感じられないのだった。
 
 母の遺骨は東京の我家の祭壇に安置してある。幽かな声も立てず、石のように鎮まりかえっている。近いうちに本人の希望により、大阪にある父の墓所に納骨する予定である。そこはある宗教団体の本部がある場所であるが、宗派によりそれぞれの弔い方は違っていても、やはり手厚く死者を祀る空間は何処にでもあるものだと思う。
 
 しかし、私自身は死んでもそこには納骨せずに、すでに海に散骨されることを妻に頼んでいる。もちろん私が先に死んだ場合ではあるが。なぜなら死者の遺骨は唯のカルシウムの残骸であり、この地上に残すことに何の意味も見出せないからである。
 
 だから、私は今回、母の遺骨を飛行機で抱いて運ぶのではなく、ダンボールに手厚く納め、宅急便で東京に送ることにした。もちろん宅配業者には小包みの中身を言ってはいない。ただ、陶器割れ物、上下に動かさず、とだけ伝票に付記をした。
 
 母は私を生前のように怒っただろうか。そうであるならば、何らかの手段で必ず私に伝えてくるはずである。死者の異界への閉じ込めは、そして祈りの強い人の死んだ直後のしばらくは、それほど堅固なものとは私には思えないのである。彼女もそうした者の一人であったはずだ。私の処置に異議を差し入れるはずである。
 
 ひたひたと台所の鍋底に滿つる水音も、かさかさと触れあう庭の葉音も聞こえない。しかし、霊魂とは霧深きしののめの空の下、肌を濡らされていくようなかそけさの、密なるものが毛穴にはい入り、その見えざるものを感知するセンサーを皮下に目覚めさせていくものだ。霊魂は時間も空間も超越したものだから、やはり時空に縛られている五感の力では捕捉することができないのである。

 振り返れば、20年前に死んだ父はおそらく深く憂いを残して死んだ。それは妻である私の母を心配していたのだと思う。さらに私と母との関係も含まれていたのだろう。息を引き取る直前に、一筋の涙が彼の頬を流れた。その時、私はそれが何の涙かを知る由もなかったが、今ではその涙の意味がわかるような気がする。
 
 荼毘に付したあとの時だった。霊柩車の中で骨壷を抱く私に、骨壷の中でがさっと口惜しい音を立てて「母を頼む」と、たしかに呟いた。私にはそんな気はなかったし、心の中で返事はしたが、結局、父との約束もはたさなかった。そのことを父は早くから予見していたのかもしれない。

 父の通夜の日、真夜中にふと目が覚めた。遺体が寝ている隣りの居間の襖を開けると、枕元に置いてあった燈明の光がゆらゆらと揺れて明るくなっている。私は怖くはなかったが、父の生々しい気配をたしかにその部屋の中に感じていた。私を見る優しい眼差しを脳中で見ていた。

 と同時に、明るくなった燈明の光がなだれをうって目の中に押し寄せてきた。光の炎上は私の水晶体の底に小さな丸い像を結んだ。そこには小さな幼な子がきゃっきゃと笑い声を立てて、中空で遊んでいるのが見えていた。それが死んだ父であることは瞬時に分かった。

 今、純粋となって大元に帰ろうとしている彼の姿を目のうちに認めたとき、後戻りのできない道を父がすでに歩み始めていることを確信したのだった。その時、彼が死んでから初めて、私は声を上げて一人で泣いた。

 幽明境を異にして、人は死してのちも交換する手立てはあるのではないか。しかもその心情世界は、会話を重ねるごとに深まっていく。そこでは死者たちは生者のために存在し、子孫たちのための垂直落下の束になれば、思わぬ力をこのうつし世に発現させる。我々の死者への最大の供養は、そうした彼らを想起し、密やかな会話を重ね、彼らの力を引き出すことにあるのであって、骨をただ愛でることではないのではないか。
 
 それにしても母の沈黙はいつまで続くのだろうか、私にはやはり不可思議なことに変わりはないのだ。ひょっとしたら好きだった染め色の、私の選んだ淡い薄桜色の経帷子に、あるいは祭壇を埋め尽くした生花に、至極満足したのかもしれない。何も語らぬこと、それこそが言葉の届かない深度から私に届いた、もしかしたら母の唯一の、そして最も饒舌な遺言だったのではないか。