みそぎ祓いは、実は心を祓い清めることではなく、身体の穢れを清めることであり(心の浄化とは仏教的世界観からくる外つ国の意であるという)、宣長によるとやまとこころは、猛々しい硬直した心ばえとはまったく違った、ものに触れて動く心の女々しさである。理非善悪を裁定する儒教や仏教などの理屈と、本来の日本語に含まれた感性の根深さを注意深く分離して、我々の口籠りの理由がどこにあるのかよく考えなくてはならない。
私達の日常生活は多くの言葉によって成り立っているが、その言葉は、感情や思考の伝達の道具にすぎないのだろうか? もしそうであれば、ひとたび放った言葉は伝達の役目を済ませると、大気に散じてそのまま跡形もなく消滅していくはずである。そして、私達が言葉に縛られ、時として、運命の焼印を押されるほどに、自分に取り憑くこともないであろう。
肉体が自分のものでありながら、自立した物として精神に抵抗することがあるように、言葉もまた、物に触れ、事に触れて鍛えられた、その自発的にもっている衝動力を生き物のように外に露わにすることがある。言語表現の伝達作用をはるかに超える、言葉のこの自律性こそが、古代より、我々日本人が信じてきた、あの言霊(ことだま)というものであった。
「しきしまの 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ」ー万葉集3254(柿本人麻呂) 人麻呂の友人が異国に旅立つときに、この日本は言霊が幸いをもたらす国だから、私があなたの幸いを言挙げ(言葉にして)したので、どうぞ御無事に旅立ってくださいと彼が歌ったのは、はるか昔の飛鳥時代であった。
そこには、一つ一つの単語の意味よりは、言葉のつながりを肉声化(言挙げ)することによって不思議な力が宿り、現実がその言葉の固有な力に呪縛されるという話である。古代に於いて、言葉が現実をコントロールするという感覚は、余りにも普通の人の感じ方であり、生きる常識だったのである。
さすがに現代の我々には、そんな御めでたい言霊信仰はなくなったであろう。それでも私達は、日常会話の中で、不吉なことや縁起でもないことは、できるだけ口にはしないようにしている。結婚式などのめでたき席で、「きる」や「さく」の忌み言葉を控え、「終わり」を「お開き」に言い換えるのは、言霊の作用によって、希望に満ち溢れた新婚二人に、そんな凶事が起こることへの警戒からであろう。
明治の初め頃まで、親しい間柄以外には、けっして本名を明かさない慣習が、武士や公家の世界には残っていた(実名敬避俗)。実名はその人間と霊的に深く結びついており、他人が本名を口にすることは、その本人を全的に支配することになると恐れられていたからである。
言葉が肉声となって事物に作用する。良きにつけ悪しきにつけ、肉声化された言葉の響きは、世界との相互作用を起こし、言葉を発した意(こころ)と言葉と事物はあらゆるところで浸透し合っている。
そもそも古代日本では、口に出した言(こと)は、そのまま事(こと)を意味した。言と事は未分化に混ざり合っており、両方とも、こと’という同じ単語で把握されていたという。それがしだいに、一方では言端(ば)’として、他方が事’として概念分離していった。ちなみに、事は、人と人、人と物などの関わり合いによって、時間的推移を意味する出来事や事件を言うようになり、そうした推移変動の概念を含まない対象を、もの’として、区別して使われるようになったのだ。
我々をとりまく世界はそうした事や物の集積体である。事物は刻々と変化して多種多様に姿を現し、私達自身もその世界に触れて、心がうごき、それは言葉となって、言葉は事の端(発端)となりながら、不断に展開し続ける事物のなかに溶けていく。
ここで、心とその言葉と事は一体化するのだ。心は事に接した刹那、その感応の度合いによって何ものかに結晶化されるのだが、それを情’と呼ぶ。漠然とした思いや感情は、結晶化される手前で、ゆれ動き、うごめき、言葉によって初めて切り取られていく。事に触れて、心から発した思いは、言葉によって逆に発見されていくのである。
人は自ずから年はとらない。老い’という言葉が脳裏に浮かび始めたときに、急激に現実が流れ込み、実感としての歳を重ねるのである。同居の義母に対して、20年という長い間、言葉にならないもやもやとした不快感がつきまとっていたのだが、ある時、私の脳裏に、嫌い’という一文字が浮かんだ。不意打ちに驚いたが、霧が晴れるようにすべてを了解した。
言霊は、なにをさしおいても肉声に宿る。肉声は、音声の抑揚である肉体の動きでもある。よろずの事に触れて、耐え難き心の抑揚が、明確な認識以前に、肉体であるからだ’を動かし、同じ徴(しるし)としての言葉を発する。心も言葉も、肉声化されるからだも、我々が生きているという一つの事実を、別の角度から光をあてていることにすぎない。
肉声としての言葉が発生し、言語体系が完成されてきた歴史は、おそらく数十万年の人類の歴史と重なっているのだろう。しかし、文字が発明され、言語文化の華を咲かせたのは、僅かに、ここ数千年間のことにすぎない。言語による情報伝達の役割が高度に発達したのもこの間の出来事だった。もともと言霊は、口語である話し言葉のなかにこそ培われてきたものなのだ。
2010年